🕓 2025/7/14
#観光地
白鷺の城が暁光をまとったあの日から、四百余年

目次
はじめに
姫路城を「誰が建てたのか?」――その問いを入口に、白鷺城の700年をほどいていく旅がいま始まります。赤松氏が灯した砦の松明は秀吉の野望で燃え上がり、池田輝政の手で眩い羽を広げました。廃城令の嵐をくぐり抜け、世界遺産へと舞い上がったこの城のドラマを、物語・年表・体感スポットの三層構成でご案内します。まずは三代が託した「創城の意志」に耳を澄ませてください。
なお、各章のビジュアルは読者のみなさまに情景をより鮮明に思い描いていただくため、AIで生成したイメージを使用しています。実際の景観とは異なる場合がありますので、あくまで補助的な参考としてお楽しみください。
1. “誰が建てた”を紐解く姫路城物語
薄曇りの播磨平野に、白い翼が舞い降りる――
姫山のゆるやかな稜線に寄り添うように、姫路城は静かに立っています。築かれて四百年、白い壁は朝の光を受けてほんのり染まり、その姿から「白鷺城」と呼ばれてきました。ここには、三つの世代が込めた想いが折り重なり、深い藍の層のように息づいています。
「誰が築いたのだろうか」とふと思いをめぐらせると、時代はすっと遡り、砦を渡る風の音や太鼓の響きが耳を打つようです。
赤松の使命、秀吉の野望、そして輝政の責任――三つの意志が重なり、白鷺は翼を広げるかのように城の姿を整えました。
なぜ彼らは姫山に城を置き、石を積み、白壁に刀の光を映したのか。その答えを探す小さな旅は、三代にわたる築城の物語へと続いていきます。
第1章:松明に揺れる姫山――赤松則村・貞範の砦
1333年、南北朝の抗争が火を噴き、世の中が東西に引き裂かれていた頃のことです。播磨の豪族、赤松則村は「京を奪い返す足掛かりが要る」と考え、姫山に小さな砦を据えました。荒く組んだ木の櫓(やぐら)には松明がともり、赤い光が夜雲に滲んではゆらゆら揺れていたと伝わります。砦といっても、実のところは周囲を見張る物見台のような造りで、守りよりも“旗を掲げる場所”としての色彩が濃かったようです。
やがて子の赤松貞範が「父の砦を、より確かな楯(たて)へ」と念じ、1346年ごろに石垣を積み直しました。川原石と花崗岩を野面積みにした、ごつごつした壁です。それでも、櫓や土塀を少しずつ増やし、「姫山城」と名をあげたことで、ここははじめて城郭らしい姿になりました。
――「この砦こそ、わが家と播磨を守る最前の楯となる。」
貞範はそう言い切り、城に宿る火を絶やさぬよう見張り続けたと伝わります。けれど忠義を誓った将軍家(足利氏)をめぐる騒乱の波は高く、姫山城は主を替えるたびに石垣が崩れ、また積み直される運命を背負いました。
それでも貞範は、瓦の破片を拾い集めるように守りを継ぎ足し、「この城はいつか必ず我らが盾になる」と胸に刻み続けます。やがて戦国の混沌が近づき、砦に残されたその火種は、次の世代で大きく燃え上がる支度を静かに整えていくのでした。
第2章:黒母衣の三重天守――羽柴秀吉、天下取りの跳ね橋
時は天正八年(一五八〇)。中国攻めをほぼ終え、天下統一が射程に入った羽柴(のち豊臣)秀吉は、播磨の中心地・姫路へ足を踏み入れました。彼が見上げた姫山は、まだ質素な小城のまま――けれど秀吉の目には、ここが西国へ渡る“跳ね橋”として映ったのです。
秀吉はまず、城の背骨にあたる石垣を積み増し、三重の天守を据えました。城下町も道筋を碁盤の目に切り直し、「ここから先はすべて自軍の庭先だ」とばかりに道幅と水路を整えていきます。
――「姫山を堀に見立て、西国へ架ける跳ね橋としよう。」
そう言って采配を振るう現場に、甲冑の武士はほとんどいません。代わりに槌や鋸を手にした大工、瓦を焼く瓦師、白壁を塗り込む漆喰職人がひしめき、戦太鼓ではなく木槌の音が昼夜を分かたず響きました。
完成した三重天守は、秀吉の黒母衣(くろほろ)衆――黒い母衣を背に翻した精鋭武者の誇りを映す象徴となります。しかし秀吉にとって姫路はあくまで中継地点。「都は大坂に据える」と決めた彼が大坂城へ移ると、姫山には再び静けさが戻りました。
三重天守は残され、黒母衣の記憶だけが風に揺れながら、次の築城者をじっと待ち続けることになります。
第3章:白鷺の羽化――池田輝政、九年の大改築
慶長五年(一六〇〇)。関ヶ原の戦いで鳴り響いた勝ちどきが播磨にも届き、徳川家康は西国を睨む要の地として姫路を選びます。そこで白羽の矢が立ったのが、娘婿の 池田輝政。与えられた石高は五十二万石、「ここを西国監視の楯に」と託されたわけです。
輝政はまず秀吉が残した三重天守をあえて取り払い、「一から造り直そう」と決めました。延べ三万人を呼び集め、姫山を削り、谷を埋め、石を積む――気の遠くなるような作業が九年続きます。迷路のように折れ曲がる坂道、七層で層をなす曲輪、石垣の上をぐるりと走る白漆喰の長塀。大坂とは違い、「守るための美」を追い求めた設計でした。
――「白壁を鷺の羽のごとく広げ、誰にも破れぬ城にせよ。」
輝政がそう語ったと伝わります。
九年後、層塔型五重六階の大天守に三基の小天守が連なる「連立式天守群」が姿を現しました。白漆喰が朝日を受けてふわりと輝き、城下の誰かがぽつりとつぶやきます。
「鷺が羽を広げたようだな。」
この一言から、姫路城はやがて 「白鷺城」 と呼ばれるように。池田輝政は“築城の名手”として名を残し、城は次の四百年へ向けて静かに羽ばたき始めました。
第4章:火薬庫を免れた白壁――明治の保存劇
明治六年(一八七三)、新政府は〈廃城令〉を発し、城郭の多くに「取り壊すか、軍の練兵場にするか」を迫りました。姫路城も例外ではありません。三の丸の建物は次々と取り払われ、「あの白壁を砲撃演習で吹き飛ばしてみてはどうか」とささやく将校さえいたと伝わります。
――「あの白壁を、一発で吹き飛ばしてみせよ」
そんな不穏な声が石垣のあいだを渡り、白漆喰の壁に冷たい影を落としました。
ところが陸軍中佐 中村重遠 が首を振りました。
「あれは播磨の目印だ。測量にも役立つ。残しておけ」
軍の実務を盾にしたこの進言で、天守はひとまず爆破対象から外れます。しかし維持費を嫌った国は、一八七一年、城をまるごと競売にかけました。落札したのは近在の道具商 神戸(かんべ)清次郎。価格はわずか二十三円五十銭。「こわして材木と瓦を売れば儲けが出る」と踏んだからです。
けれど見積もりを取ってみると、石垣を崩し白壁をはがす費用は目玉が飛び出るほど高い。神戸はあきらめ、城をそのまま放置しました。結果として、白鷺の壁は砲声を聞くこともなく、夕陽を静かに浴び続けることになります。
算盤を弾き直した神戸は顔をしかめ、結局、城には手をつけずに放置します。白鷺の壁は、誰の手でも崩されないまま冬を越し、また春を迎えました。そんな折、明治十一年(一八七八)のこと。陸軍大佐 中村重遠 が城を見上げ、ゆっくりと息をつきました。
「この城は、日本の築城術が残した最高の教科書だ。後世へ渡さねばならぬ。」
中村の建白書は翌年、太政官で認められ、姫路城の保存が正式に決まります。白壁は砲声も解体鎚も免れ、夕陽を浴びながら静かに時をつないでいきました。
第5章:白鷺は今も舞う――平成の大修理と未来の継承者へ
平成二十一年(二〇〇九)、姫路城は半世紀ぶりに大きく羽を休めることになりました。ここから六年、「平成の大修理」と呼ばれる工事が続きます。職人たちは屋根瓦を一枚ずつ外し、長年の風雨でくすんだ漆喰を丁寧にはがし取り、傷んだ梁や柱には檜の新材を静かに組み込みました。天守をすっぽり包んだ覆屋(おおいや)の高みに設けられた見学通路は “天空の白鷺” と名づけられ、訪れた人々は、まるで翼の裏側をのぞき込むように白い城の骨組みを見上げたものです。
修理を終えたいま、天守最上階の武者窓に立てば、南には瀬戸内の光が瞬き、北からは姫山を渡る風が頬を撫でます。その風には、赤松則村が掲げた松明の匂い、秀吉が描いた黄金色の野望、池田輝政が積み上げた白壁の息遣いが折り重なり、静かな鼓動として胸に届いてくるようです。
白鷺はそっと問いかけます。
「この先の四百年を守るのは、誰か――?」
その声に耳を澄ませた人こそ、創城三代の遺志を継ぐ“未来の城主”なのかもしれません。
2. 年表ダイジェスト
砦から国宝、そして世界文化遺産へ――姫路城の700年は、南北朝の動乱から近代国家、世界遺産時代までを映す日本史の縮図だ。赤松氏の小砦に宿った火種は秀吉の野望で燃え上がり、池田輝政の手で白鷺となった。明治の廃城令をくぐり抜け、昭和・平成の大修理で甦った天守は、いまも白壁を輝かせながら「次の400年」を見据えている。
1. 大天守内部 ― 17世紀木造の鼓動を聴く
厚い柱に組み付く急勾配の木階段、竹製と鉄製が混在する武具掛け、階段口を封鎖する戸板――六層の内部は当時そのままの実戦仕様です。薄暗い武者走り(周回廊)から射線を意識した窓をのぞくと、池田輝政が築いた防御思想が肌でわかります。床板に残る継ぎ手や梁の墨書も注目どころ。
2. 菱の門と枡形曲輪 ― Momoyama の意匠と威圧
城内最大の櫓門で、冠木に木彫りの菱紋が輝くことから名が付きました。門をくぐると直角に折れ、石垣が壁のように迫る枡形(ますがた)。通路幅を絞って敵を翻弄する導線は、秀吉期の“攻めの美学”が色濃く残るエリアです。
3. 西の丸長局(百間廊下)と化粧櫓 ― 千姫が歩いた回廊
全長約240 mの長局には畳敷きの小部屋が連なり、千姫付き侍女 60 余名が起居しました。廊下の床板や障子越しの光は、江戸初期の女房文化をそのまま映しています。突き当たりの化粧櫓は千姫の休息所。窓辺に立つと、姫が毎朝拝んだ男山・書写山の稜線が今も同じ位置に見えます。
4. 狭間と石落とし ― 壁に残る“射線”のデザイン
土塀や櫓をよく見ると、丸・三角・四角の狭間(さま)がずらり。火縄銃の口径に合わせて角度が微妙に違い、攻撃方向が一目でわかります。張り出し式の石落とし(袴腰型)は、真下に投石・熱湯を浴びせる仕掛け。当時の戦術工学を触れられる、動く教科書です。
5. 扇の勾配と刻印巡り ― 石垣が語る職人たちの署名
備前丸高石垣は下部を垂直に、上部を扇状に反らせた“扇の勾配”。登攀を阻む曲線美は姫路城石垣の白眉です。石表面には家紋・幾何紋など約50種の刻印が散在し、石工集団や石場を示す符号とされます。刻印を探し歩くと、築城現場の賑わいが立ち上がるよう。
6. お菊井戸 ― 皿屋敷伝説が息づく怪談スポット
上山里に残る深さ約20 mの井戸は、『播州皿屋敷』で知られる“お菊”が身を投げたとされる場所。夜半に皿を数える幽霊話は江戸文学や歌舞伎で全国に広まり、城の名を庶民に刻みました。昼でも覗き込むと底が見えず、怪談が生まれた理由を実感できます。
さいごに
白漆喰に朝日が射し、遠い世の鼓動が石垣を伝って届く――姫路城に立つと、赤松の矜持も、秀吉の躍動も、輝政の遠望も、一羽の白鷺に重なって胸に舞い降ります。
ここは単に「誰が建てたのか」を知る場所ではなく、人が受け継いできた夢と責任を肌で感じる舞台。天守の梁に残る墨書、長局に満ちる静寂、石垣の刻印、そして平成の大修理で蘇った白壁――すべてが過去と未来を結ぶ架け橋です。
次に城門をくぐるのは、物語を読み終えたあなた自身。白鷺の問いかけに耳を澄ませ、その翼の行く先を、ともに見届けてみませんか。