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興福寺について|歴史や概要を詳しく解説

作成者: BesPes|Sep 19, 2024 11:56:54 PM

🕓 2024/9/22
#寺

興福寺の歴史や概要を詳しく解説

 


 目次

  1. 興福寺の概要
  2. 興福寺の歴史
  3. 興福寺の見どころ


はじめに

奈良市の中心に位置し、日本の仏教史において極めて重要な役割を果たしてきた興福寺。創建以来、藤原氏の氏寺として繁栄し、数々の国宝や重要文化財を有するこの寺院は、1300年を超える長い歴史を持つ、日本を代表する寺院の一つです。

この記事では、そんな興福寺の概要、長い歴史、そして訪れる際に見逃せない見どころを詳しくご紹介します。歴史の深さと文化財の美しさを存分に堪能できる興福寺の魅力を、ぜひ感じてください。

 

1. 興福寺の概要 

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市に位置する法相宗の大本山であり、日本の仏教史において極めて重要な寺院の一つです。その起源は669年(天智天皇8年)、藤原鎌足の妻である鏡女王が夫の病気平癒を願って山階(やましな)に建立した山階寺に遡ります。その後、710年(和銅3年)の平城京への遷都に伴い、現在の奈良の地に移され、「興福寺」と改称されました。藤原氏の氏寺として、政治・文化の中心地である奈良において大きな影響力を持ち、南都七大寺の一つとして繁栄しました。


度重なる戦乱や火災により多くの建物を失いましたが、現在でも多くの国宝や重要文化財を有しています。特に、1426年(応永33年)に再建された高さ50.1メートルの五重塔は、日本で二番目に高い木造の塔であり、奈良のシンボル的存在です。

また、東金堂には本尊の薬師如来坐像や日光・月光菩薩像、四天王像などの貴重な仏像が安置されており、いずれも国宝に指定されています。さらに、国宝館には奈良時代を代表する彫刻作品である「阿修羅像」をはじめ、多くの仏像や文化財が展示されており、多くの参拝者や観光客が訪れます。

興福寺は藤原氏の勢力と密接に関係し、奈良時代から平安時代にかけての政治・文化の発展に大きく寄与しました。法相宗の中心地として、学問や仏教研究の拠点となり、多くの高僧を輩出しました。また、1998年(平成10年)には「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産に登録され、その歴史的・文化的価値が世界的にも認められています。

奈良公園内に位置し、東大寺や春日大社などの他の歴史的名所にも近接しています。境内には鹿が自由に歩き回り、古都奈良の風情を感じることができます。アクセスも良好で、近鉄奈良駅から徒歩約5分、JR奈良駅から徒歩約15分と、観光に便利な立地です。

 

 

 

 

2. 興福寺の歴史 

興福寺は、日本の古都奈良に位置する歴史的な寺院で、その起源は奈良時代にまで遡ります。以下、興福寺の主要な出来事を項目ごとにまとめ、正確な情報を基にした内容をお伝えします。

 1. 創建と奈良時代の繁栄(669年〜794年)

※イメージ画像

興福寺の起源は669年(天智天皇8年)、藤原鎌足の夫人である鏡女王(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を祈願して山階(やましな、現在の京都市山科区)に建立した「山階寺(やましなでら)」に遡ります。710年(和銅3年)、平城京への遷都に伴い、藤原不比等(ふじわらのふひと)が寺院を現在の奈良市に移し、「興福寺」と改称しました。

藤原氏の氏寺として、興福寺は南都七大寺の一つに数えられ、国家的な大寺院として大いに繁栄しました。この時期、多くの堂塔が建立され、仏教文化の中心的存在となりました。

 

 2. 平安時代から鎌倉時代の発展(794年〜1333年)

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平安時代から鎌倉時代にかけて、興福寺は法相宗の総本山としての地位を確立し、宗教的・政治的な影響力を拡大しました。藤原氏の勢力が強まるにつれ、寺院もその威光を増しました。

鎌倉時代には文化的活動が活発化し、有名な「阿修羅像」や「八部衆像」など、多くの優れた仏像が制作されました。これらの作品は、奈良時代から鎌倉時代にかけての仏教美術の頂点を示すものとして評価されています。

 

 3. 戦乱と再建(1333年〜1603年)

※イメージ画像

南北朝時代から戦国時代にかけて、全国的な戦乱の影響で興福寺は度重なる被害を受けました。1352年(観応3年)、南朝方の軍勢が奈良を襲撃した際、興福寺の主要な堂塔が焼失しました。この事件は「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と呼ばれ、興福寺のみならず奈良全体が大きな損害を被りました。その後も興福寺は再建と焼失を繰り返すことになります。

1467年(応仁元年)に始まった「応仁の乱」は、京都を中心に11年間続いた大規模な内乱で、奈良にもその影響が及びました。興福寺もこの戦乱の余波を受け、建造物の焼失や経済的困窮に直面しました。寺院勢力としての興福寺は、一時的に軍事力を持つ「僧兵(そうへい)」を組織し、自衛や勢力拡大を図りましたが、戦国大名たちの台頭によりその影響力は次第に低下しました。1567年(永禄10年)、松永久秀が大和国を平定した際、興福寺はその軍勢によって再び焼失の憂き目に遭いました。これにより、多くの堂塔や文化財が失われました。

安土桃山時代には、豊臣秀吉が天下統一を進める中で、寺社の再建にも関心を寄せました。興福寺も秀吉の庇護を受け、1595年(文禄4年)には五重塔の再建が許可されました。しかし、度重なる戦乱による経済的打撃や社会情勢の変化により、完全な復興には至らず、多くの建造物が再建されないままとなりました。

 

 4. 江戸時代の安定と文化活動の復興(1603年〜1868年)

江戸時代になると、徳川幕府の安定した統治のもとで全国的に平和な時代が訪れました。この時期、興福寺は再び復興と発展を遂げます。幕府や諸大名、庶民からの寄進によって、失われていた堂塔の再建や修復が進められました。特に、五重塔(現存のものは1426年再建)や東金堂、北円堂などの主要な建造物が修復され、寺院の威容が取り戻されました。

また、興福寺は学問や文化活動の中心地としても機能しました。法相宗の教義研究が盛んに行われ、多くの優れた僧侶を輩出しました。さらに、絵画や彫刻、書道などの芸術活動も活発で、多くの文化財が生み出されました。例えば、興福寺に伝わる「興福寺仏画」がこの時期に制作され、その高い芸術性は現在でも評価されています。

庶民の信仰も深まり、興福寺は奈良を代表する寺院として多くの参拝者で賑わいました。年中行事や祭礼も盛んに行われ、地域社会との結びつきが強化されました。特に、毎年10月に行われる「おん祭」は、奈良の伝統的な祭事として多くの人々に親しまれました。

 

 5. 明治維新以降の変遷と現在(1868年〜現在)

明治維新後、政府の神仏分離政策と廃仏毀釈の影響により、興福寺は多くの建物や寺領を失いました。しかし、その後の文化財保護運動や関係者の尽力により、一部の仏像や建造物は保存されました。1958年(昭和33年)には「国宝館」が開館し、多くの国宝・重要文化財が一般に公開されるようになりました。

1998年(平成10年)には「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産に登録され、その歴史的・文化的価値が国際的にも認められました。

現在、興福寺は継続的な修復事業を行いながら、多くの参拝者や観光客を迎え、日本の歴史と文化を伝え続けています。

 

 

 

 

3. 興福寺の見どころ 

大興福寺は、その長い歴史と多くの文化財で知られる奈良を代表する寺院です。以下、興福寺を訪れる際にぜひ立ち寄りたい主要な見どころを、正確で詳しくご紹介いたします。

 ■ 五重塔(ごじゅうのとう)

興福寺の五重塔は、奈良の象徴的な存在であり、その高さは50.1メートルで、日本で2番目に高い木造の五重塔です(最も高いのは京都の東寺の五重塔)。初代の五重塔は730年(天平2年)に建立されましたが、度重なる火災や戦乱によって何度も焼失しました。現在の五重塔は1426年(応永33年)に室町幕府の将軍・足利義教(あしかがよしのり)の時代に再建されたものです。

五重塔は各層が上に行くほど小さくなる美しい比例で構成され、屋根の反りや軒の重なりが独特のリズムを生み出しています。塔の中央には心柱(しんばしら)が通っており、これは地震対策としての機能も果たしています。また、塔そのものが仏の遺骨である「舎利(しゃり)」を納める場所とされ、信仰の対象となっています。

 

 ■ 東金堂(とうこんどう)

東金堂は、興福寺の主要な堂宇の一つであり、国宝に指定されています。最初の建立は726年(神亀3年)で、聖武天皇が母・藤原宮子(ふじわらのみやこ)の病気平癒を祈願して建てられました。「金堂」とは本堂を意味し、東金堂は西金堂と対をなしていましたが、西金堂は現存していません。

現在の東金堂は1415年(応永22年)に再建されたもので、室町時代の和様建築の特徴を持っています。入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺きで、正面七間、側面四間の堂々とした構えです。内部には本尊の薬師如来坐像(重要文化財)が安置され、その両脇に日光菩薩立像と月光菩薩立像(ともに国宝)が配置されています。さらに、四天王立像(持国天、増長天、広目天、多聞天、すべて国宝)が四隅を護っています。これらの仏像は奈良時代から平安時代にかけて制作されたもので、乾漆造や木心乾漆造など高度な技法が用いられています。

 

 ■ 中金堂(ちゅうこんどう)

中金堂は、興福寺の中心的な建物であり、本堂に相当します。創建は710年(和銅3年)で、興福寺が現在の地に移転した際に建立されました。度重なる火災や戦乱で何度も焼失し、江戸時代の1717年(享保2年)の火災以降、再建されないまま約300年間にわたり基壇のみが残っていました。

2010年(平成22年)から再建工事が始まり、2018年(平成30年)10月に再建が完成しました。再建に際しては、発掘調査や古文書の研究に基づき、奈良時代から平安時代の様式を取り入れた木造建築として復元されています。建物は朱塗りの柱と白い壁が美しく映え、伝統的な和様建築の技法が随所に施されています。

中金堂の内部には、本尊の釈迦如来像(鎌倉時代作、重要文化財)が安置され、その両脇に脇侍の文殊菩薩像と普賢菩薩像が配置されています。

 

 ■ 国宝館(こくほうかん)

興福寺国宝館は、多数の国宝・重要文化財を収蔵・展示する博物館で、仏教美術の宝庫として広く知られています。初めて開館したのは1928年(昭和3年)で、その後も改修・拡張を経て、現在の建物は2018年(平成30年)にリニューアルオープンしました。館内では、興福寺が所蔵する約20点の国宝と40点以上の重要文化財を常設展示しており、その質・量ともに日本有数のコレクションを誇ります。

特に有名なのが、奈良時代の乾漆造(かんしつづくり)による「阿修羅像(あしゅらぞう)」です。高さ153センチメートル、三面六臂(さんめんろっぴ)の独特な姿が特徴で、八部衆像の一つとして仏教世界を守護する神として位置づけられています。阿修羅像は、少年のような繊細な顔立ちで、内面の葛藤や静かな瞑想を表現しており、その神秘的な雰囲気は多くの人々を魅了しています。

 

 ■ 北円堂(ほくえんどう)

北円堂は、興福寺境内の北側に位置する八角円堂で、国宝に指定されています。初建は721年(養老5年)、藤原不比等(ふじわらのふひと)の一周忌に際し、その菩提を弔うために子の藤原四兄弟によって建立されました。現在の建物は鎌倉時代の1208年(承元2年)から1210年(承元4年)にかけて再建されたもので、日本の現存する八角円堂の中でも最古級のものとされています。

建築様式は和様を基調としつつも、大仏様(だいぶつよう)の要素も取り入れた混合様式で、その均整の取れた美しい姿が特徴です。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)の入母屋造で、八角形の平面を持つ堂々とした佇まいは、鎌倉時代の建築技術の高さを示しています。内部には、本尊の**弥勒如来坐像(みろくにょらいざぞう)**が安置されています。この像は国宝で、高さ約2.5メートルの寄木造(よせぎづくり)で制作されています。

さらに、運慶(うんけい)とその一門によるとされる**無著・世親像(むじゃく・せしんぞう)**が左右に安置されています。無著・世親は4〜5世紀頃のインドの僧で、法相宗の教義の基礎を築いた人物です。北円堂は通常非公開ですが、特別公開の際にはこれらの貴重な仏像を直接拝観することができます。

 

 ■ 南円堂(なんえんどう)

南円堂は、興福寺の南側に位置する八角円堂で、重要文化財に指定されています。813年(弘仁4年)、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が父・藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)の追善のために建立しました。以来、藤原氏の繁栄とともに信仰を集め、西国三十三所観音霊場の第九番札所として、多くの巡礼者が訪れるようになりました。

現在の建物は1789年(寛政元年)に再建されたもので、江戸時代中期の建築様式を伝えています。朱塗りの華やかな外観と八角形の美しいフォルムが特徴で、屋根は檜皮葺の重層入母屋造となっています。

本尊の**不空羂索観音菩薩坐像(ふくうけんじゃくかんのんぼさつざぞう)**は秘仏で、通常は公開されていません。この像は平安時代の作で、高さ約3メートルの木造漆箔(もくぞうしっぱく)で制作されています。

 

 ■ 三重塔(さんじゅうのとう)

興福寺の三重塔は、日本の国宝に指定されている貴重な建造物で、その歴史と美しさから多くの人々に親しまれています。初建は1143年(康治元年)とされますが、1180年(治承4年)の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討(なんとやけうち)で焼失しました。現在の三重塔は1188年(文治4年)に再建されたもので、鎌倉時代初期の建築様式を伝える現存する数少ない塔の一つです。

高さは約19メートルで、五重塔と比べると小ぶりですが、その均整の取れた美しいプロポーションが特徴です。三重塔は和様(わよう)の建築様式を基調としており、細部の意匠や木組みに高度な技術が用いられています。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、年月を経た風合いが歴史の深さを感じさせます。

 

 ■ 猿沢池(さるさわいけ)

猿沢池は、興福寺の南側に位置する周囲約360メートルの池で、奈良の風情を感じられる名所として知られています。奈良時代の749年(天平21年)、興福寺の放生池(ほうじょういけ)として造られました。放生池とは、仏教の教えに基づき、生き物を放して殺生を戒めるための池で、慈悲の精神を象徴しています。

池の名前の由来には諸説ありますが、一説には、かつて池のほとりに猿沢(さるさわ)という草が生えていたことから名付けられたとも言われています。また、平城天皇の時代に猿がこの池で水浴びをしていたという伝説も伝わっています。

 

 

 

 

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 さいごに 

最後に、興福寺はその壮大な歴史と文化的価値を通じて、今なお多くの人々を魅了し続けています。度重なる戦乱や災害を乗り越え、多くの文化財や仏教美術を現代に伝えるこの寺院は、日本の歴史と仏教の発展を語るうえで欠かせない存在です。

奈良の風情を感じながら、興福寺を訪れることで、過去から現在まで続く悠久の時の流れを肌で感じることができるでしょう。ぜひ、奈良を訪れる際はこの歴史的な場所で、日本の文化遺産を存分に楽しんでください。