
竹田城の歴史や概要を詳しく解説

目次
- 竹田城の概要
- 竹田城の歴史
- 竹田城の見どころ
はじめに
竹田城跡は、兵庫県朝来市の古城山(標高353.7メートル)の山頂に石垣だけが残る山城跡です。雲海に浮かぶ姿から「天空の城」と呼ばれています。
竹田城の概要

城跡に建物は残っていませんが、当時の石垣がそのままの形で残っています。麓の竹田の町との高低差は約250メートルあり、雲海が出ると石垣が雲の上に浮かんだように見えることから「日本のマチュピチュ」とも呼ばれます。
嘉吉年間(1443年頃)に但馬守護・山名宗全(持豊)が配下の太田垣氏に命じて築かせたと伝わり(口碑)、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後に廃城となりました。

現在の石垣は、1585年に城主となった赤松広秀の時代に整備されたと考えられています。城跡は1943年(昭和18年)に国史跡に指定されました。
雲海は寒暖差が大きくなる晩秋に最も出やすく、見られるのは早朝です。ただし天候次第で、出ない日もあります。
竹田城の歴史
1. 築城と初期の歴史 (15世紀)
1431年(永享3年)に山名持豊(のちの宗全)が築城に着手し、1443年(嘉吉3年)に完成して太田垣光景が初代城主になったと伝えられます(口碑)。以後、山名氏の重臣・太田垣氏が7代にわたって城主を務めました。
2. 戦国時代と竹田城の重要性 (16世紀)
1577年(天正5年)、播磨を平定した羽柴秀吉は弟の秀長に但馬を攻めさせ、翌年には秀長を竹田城に入れました。1580年(天正8年)の秀吉の但馬攻めで太田垣氏の支配は終わり、城主は次のように移ります。
- 1443年頃〜1580年:太田垣氏(7代)
- 1580年〜1585年:桑山重晴(1万石)
- 1585年〜1600年:赤松広秀(斎村政広、2万石のち2万2千石)
3. 廃城とその後の運命 (17世紀) 
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、広秀は西軍について丹後田辺城を攻めました。敗戦後は東軍の鳥取城攻めに加わりましたが、城下に火を放った責めを問われて鳥取の真教寺で自刃し、竹田城も廃城となります。1615年(元和元年)からは生野代官所の支配下に置かれました。
4. 近代以降の保存 (20世紀〜現在) 
1939年(昭和14年)に竹田町役場の所有となり、1943年(昭和18年)に国史跡に指定、2009年(平成21年)に追加指定を受けています。
竹田城の見どころ
■ 天守台 
城の中心で、最も高い位置にあるのが天守台です。石垣の隅は算木積みで組まれています。ここからは南へ延びる南千畳を見下ろし、麓の竹田の町と周囲の山々を見渡せます。城跡内は一方通行の見学ルートが決められており、見学には30〜60分ほどかかります。
■ 南千畳
天守台の南に広がる曲輪で、先端まで石垣が続きます。南千畳の石垣には、攻め寄せる敵の側面を突く「横矢」の構えが見られます。竹田城跡の石垣は大小の自然石を組み合わせた野面積みで、近江の穴太衆が築いたと伝えられています。
■ 立雲峡 
城跡を外から眺める定番の場所が、朝来山の中腹にある立雲峡です。雲海に浮かぶ竹田城跡の全景を、谷を挟んだ向かい側から見渡せます。
まとめ
雲海目当てなら晩秋の早朝に登城します。雲海シーズンの土日祝日は、城跡に最も近い「山城の郷」駐車場が午前2〜3時頃に満車になることもあるため、JR竹田駅から歩くか、国道沿いの駐車場から登山道を使うのが確実です(2026年9月時点)。




