はじめに
福井県坂井市丸岡町に、ひっそりとたたずむ古城があります。丸岡城(まるおかじょう)——日本に現存するわずか12城の天守の一つに数えられるこの城は、石瓦を積み上げた重厚な天守と、周囲を囲む桜並木が織りなす景観が訪れる人々の心を強く惹きつけます。別名を「霞ヶ城(かすみがじょう)」と呼ぶのは、霞がかかったような靄の中に天守が浮かび上がる幻想的な春の光景に由来しています。
丸岡城が建てられたのは1576年(天正4年)のこと。戦国時代の武将・柴田勝豊(しばたかつとよ)が越前の地を治めるために築いたとされ、以来450年近くにわたって北陸の厳しい冬に耐えてきました。北陸の降雪に対応するために使われた笏谷石(しゃくだにいし)の石瓦は全国でもここにしか見られない特徴的なもので、雨に濡れると青みがかった独特の色合いを見せます。天守に近づいて見上げると、その石瓦の重なりがまるで魚のうろこのように整然と並ぶ様子に、思わず息をのむことでしょう。
この記事では、丸岡城の歴史や建築的特徴、城内の見どころ、周辺観光スポット、そして詳しいアクセス方法まで、丸岡城を訪れるために必要な情報をくまなくお伝えします。現存天守12城の一つとして国指定重要文化財に指定されているこの名城の魅力を、ぜひご堪能ください。また、現存天守を巡る旅の参考に、同じく現存天守を持つ犬山城や備中松山城の記事も合わせてご覧いただくと、各城の個性の違いがより鮮明に伝わるはずです。

丸岡城の概要
丸岡城は福井県坂井市丸岡町霞町1-59に所在する平山城です。霞ヶ城公園の小高い丘の上に立つ天守は、二層三階(外観二重・内部三層)の構造を持ち、高さは約11.7メートルと現存天守の中では比較的小柄ながらも、重厚な石瓦造りの外観と急峻な石垣が組み合わさった姿は独特の存在感を放っています。国の重要文化財に指定されており、北陸を代表する歴史的建造物として高く評価されています。
| 正式名称 | 丸岡城(まるおかじょう) |
|---|---|
| 別名 | 霞ヶ城(かすみがじょう) |
| 所在地 | 福井県坂井市丸岡町霞町1-59 |
| 城郭構造 | 平山城 |
| 築城年 | 1576年(天正4年)※諸説あり |
| 天守構造 | 二重三階(外観二重)、独立式望楼型 |
| 文化財指定 | 国指定重要文化財(1934年) |
| 開城時間 | 8:30〜17:00(最終入場16:30) |
| 入城料 | 大人450円、中学生以下150円 |
| 定休日 | なし(年中無休) |
| 電話番号 | 0776-66-0303 |
丸岡城の最大の特徴は、天守の屋根を覆う笏谷石(しゃくだにいし)製の石瓦です。笏谷石は福井市足羽山(あすわやま)周辺で採掘される青灰色の凝灰岩で、軟らかく加工しやすい一方で水を含むと青みを帯びる性質があります。丸岡城が位置する越前は日本有数の豪雪地帯であり、雪の重さに耐えるために一般的な粘土瓦ではなく重量感のある石瓦が使われました。この石瓦は現存天守の中では丸岡城だけに見られる唯一無二の特徴で、雨上がりや積雪の後に青みがかってしっとりと輝く様子は、他のどの城でも見ることのできない絶景です。
天守は独立式望楼型と分類される最古の形式の一つです。一階部分の入母屋屋根の上に望楼(もうろう)を載せた古い形式の天守建築であり、桃山時代から江戸時代初期にかけての城郭建築の様式を色濃く残しています。内部の急勾配な階段は、傾斜が非常に急で幅も狭く、登る際にはロープを使って体を支える必要があります。これもまた、後世に改修された城では失われた当初の武骨な機能美の名残です。年間来場者数はおよそ15万人前後を数え、福井県を代表する観光名所として多くの訪問者を迎えています。
丸岡城の歴史
築城の背景 〜柴田勝豊と越前支配〜
丸岡城が築かれたのは1576年(天正4年)のことです。築城者は柴田勝豊(しばたかつとよ)——戦国武将・柴田勝家(しばたかついえ)の甥にあたる人物です。織田信長の命を受けて越前一向一揆を平定した柴田勝家は、越前の支配を安定させるために国内を五つの区域に分け、それぞれに一族や家臣を配置しました。その一環として、北庄(現在の福井市)に本拠を置く勝家の甥・柴田勝豊が丸岡の地を与えられ、城の築造を命じられました。
当時の越前は、長年にわたって一向宗(浄土真宗)の信徒による一向一揆が猛威を振るった土地でした。1574年に信長が一向一揆を徹底的に鎮圧した後、越前の統治を任された勝家にとって、北陸の要衝を押さえる城塞の整備は急務でした。丸岡の地は越前国の北部に位置し、加賀(現在の石川県)方面からの侵攻を防ぐうえで戦略的に重要な場所でした。霞ヶ城と呼ばれる小高い丘は周囲の平野を一望でき、敵の動きを早期に察知できる天然の物見台としても機能しました。
柴田勝豊はここに天守を含む城郭を築きましたが、丸岡城主としての在任期間は短く、まもなく長浜城(現在の滋賀県)に移封されました。その後は勝家の弟の子・柴田勝安が城主となりましたが、1583年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れて自害すると、丸岡城は秀吉の勢力圏に入ります。その後は青山氏、今村氏など複数の武将が城主として交代しながら城を維持しましたが、天守そのものは創建当初の姿を大きく変えることなく存続したと考えられています。
現在の天守が1576年の創建当初のものかどうかについては、建築史の観点から議論が続いてきました。近年の調査では部材の年輪年代測定も行われており、引き続き研究が進められています。いずれにせよ、丸岡城の天守が日本最古の様式を残す貴重な遺構であることは、多くの専門家が認めるところです。
江戸時代の繁栄 〜本多家の治世〜
関ヶ原の戦い(1600年)を経て徳川家が天下を掌握すると、丸岡城にも新たな城主が赴任してきます。江戸時代を通じて最も長くこの地を治めたのが本多家(ほんだけ)です。1624年(寛永元年)に初代・本多成重(ほんださしげ)が入封し、以後本多家は5万石の藩主として丸岡を治め続けました。本多成重は徳川家康の側近・本多正信の孫にあたり、徳川幕府との強固な関係のもとで藩政を安定させました。
本多家の治世においては、城下町の整備が着実に進みました。北陸道沿いに城下町が形成され、商工業が発展し、丸岡は越前北部の政治・経済の中心地としての地位を確立していきます。また、城郭の維持と修復にも力が注がれ、丸岡城の天守は本多家の庇護のもとで江戸時代を通じて保全されました。当時の藩政の記録には、度重なる修繕工事の記述が残されており、歴代藩主が城の維持管理を重視していたことが読み取れます。
本多家が特に功績を挙げたのは、藩政の安定と農業振興です。越前は北陸の米どころとして知られていましたが、丸岡藩でも新田開発が奨励され、農業生産力が向上しました。また、本多家は文教にも力を入れており、藩校の設立や学問の振興を通じて藩士の教養を高めました。このような基盤があったため、明治維新後の社会変動にも比較的柔軟に対応できたと言われています。
江戸時代を通じて、丸岡城の天守は現存天守のうち最古の建築様式を持つ城として、地域の象徴であり続けました。当時の藩士や町人にとって、丸岡城の天守は藩の威信の象徴であり、日常の暮らしに寄り添う存在でもありました。春には城を囲む桜が咲き乱れ、城下の人々が花見を楽しんだという記録も残っており、丸岡城がすでに江戸時代から観桜の名所として親しまれていたことがわかります。
廃城令と明治の試練
明治時代に入ると、丸岡城は大きな試練に直面します。明治維新後の1871年(明治4年)に廃藩置県が断行され、全国の藩が廃止されると、丸岡藩も消滅し丸岡城は旧藩主から政府の管轄下に移されました。続いて1873年(明治6年)には「廃城令」が発布され、軍事的に不要と判断された城郭の多くが取り壊されるか、払い下げられることになりました。
廃城令によって全国の数多くの城が解体を余儀なくされた中、丸岡城の天守は辛うじてこの難を逃れました。軍による払い下げの対象にはなりましたが、地元の強い保存要望と、建物の構造が軍事転用に不向きだったこともあり、解体を免れたとされています。しかし政府の管理下に置かれた城跡の維持は十分ではなく、城郭の多くの施設が荒廃していきました。明治から大正にかけての丸岡城は、天守こそ残っているものの、その周辺は草に覆われた荒れ地に近い状態だったといいます。
明治22年(1889年)、丸岡城天守は大日本帝国陸軍の所管となりました。軍の管理下では積極的な保存整備は行われず、天守の老朽化は深刻になっていきました。屋根の石瓦は一部がずれ落ち、雨漏りが発生し、木材の腐朽が進んでいたとされています。こうした状況に危機感を抱いた地域の有識者たちが保存運動を展開し、大正から昭和初期にかけて何度かの修繕が試みられましたが、抜本的な対策には至りませんでした。
こうした苦難の中でも、丸岡城の天守は1934年(昭和9年)に国の重要文化財として指定を受けます。これは丸岡城の歴史的・文化的価値が国家によって正式に認められた画期的な出来事であり、保存運動に尽力した地域の人々の努力が実を結んだ瞬間でもありました。しかしその直後に、想像を絶する大災害が城を襲うことになります。
福井地震と倒壊・復元
1948年(昭和23年)6月28日、午後4時13分——福井県を未曾有の大地震が襲いました。福井地震(マグニチュード7.1)は福井平野一帯に壊滅的な被害をもたらし、死者・行方不明者合計3,769人(一説には4,000人超)という福井県史上最大の自然災害となりました。この地震によって、重要文化財に指定されたばかりの丸岡城天守も、完全に倒壊してしまいます。
天守の倒壊は地元住民に深刻な喪失感をもたらしました。歴代の藩主や城下の人々が守り続けてきた現存天守が、わずか数秒のうちに瓦礫の山と化してしまったのです。しかし、この大惨事の中でも地域の人々は諦めませんでした。倒壊した天守の部材は丁寧に収集・保管され、いつか必ず復元するという強い意志が引き継がれていきました。
地震後の復興が一段落した1950年代から、丸岡城の復元に向けた取り組みが本格化します。文化財保護法(1950年施行)のもとで旧来の部材を最大限活用した「修復」という位置づけで復元工事が進められ、1955年(昭和30年)に天守の復元が完了しました。この復元工事では、倒壊時に回収された石瓦や木材の約8割が再利用されたとされており、これが丸岡城が「現存天守」と認められる根拠の一つとなっています。
復元された天守は、地震前の姿と同様の外観と構造を取り戻しました。急峻な内部の階段、石瓦の屋根、望楼型の天守形式——これらはすべて震災前の姿を忠実に再現したものです。地震前の詳細な調査記録と写真が残されていたことも、正確な復元を可能にした大きな要因でした。現在の丸岡城天守は、この復元工事によって甦った姿であることを念頭に置きながら見学すると、地域の人々の執念にも似た保存への情熱が改めて胸に迫ります。
現存天守として守られてきた理由
丸岡城が「現存天守12城」の一つとして今日まで守られてきた背景には、複数の要因が重なっています。第一に、廃城令の時代を乗り越えられた地理的・社会的な要因があります。丸岡城は明治政府にとって軍事的転用の優先順位が低かったこと、また地元有力者が保存活動を早くから展開したことが、解体を免れた大きな理由とされています。
第二に、福井地震後の復元において「旧部材の保存と再利用」が徹底されたことが挙げられます。多くの現存天守が戦禍や火災で全焼したのに対し、丸岡城は地震によって倒壊したものの、石瓦や木材など主要部材が現場に残りました。これらを保管・再利用することで、建築史的に連続性が保たれ「現存天守」と認められる条件を満たすことができたのです。
第三に、地域コミュニティの継続的な保存意識が挙げられます。江戸時代の本多家の庇護、廃城後の地元有志による保存運動、地震後の復元活動、そして現代に至るまでの維持管理——これらはすべて、丸岡城を次世代に残したいという地域の人々の一貫した意志の連鎖です。2015年には「霞ヶ城公園」の整備が進められ、観光拠点としての環境が向上しています。また、毎年秋に行われる「全国小・中学生俳句大会」などのイベントを通じて、城と地域文化が結びついた活動が継続されています。
2015年には「現存天守を国宝にする会」の活動が活発化し、全国の現存天守12城の国宝指定を求める署名運動が展開されました。丸岡城も松本城・彦根城・犬山城・姫路城の国宝5城と同等の価値を持つとして、国宝指定への請願が続けられています。この運動は、現存天守の価値を社会に再認識させる契機となり、丸岡城への注目をさらに高めています。
見どころ・おすすめスポット
丸岡城を訪れたら外せないスポットを厳選してご紹介します。天守閣の内部から公園の四季の風景、ユニークな文化施設まで、丸岡城エリアは多彩な見どころに満ちています。
現存天守閣
丸岡城の核心は、何といっても現存天守閣そのものです。外観は二重(ふたかさね)でありながら内部は三層に分かれており、各階を繋ぐ階段は国内の現存天守の中でも指折りの急勾配です。傾斜はおよそ65度にも達し、登る際にはロープを握りしめて体を引き上げなければなりません。この急峻さは決して観光のための演出ではなく、万が一の際に敵の侵攻を遅らせる軍事的な合理性から生まれたものです。足腰への負担はありますが、だからこそ上りきったときの達成感は格別で、最上階に立ったとき、視界が一気に開けて坂井平野の広大な眺望が広がります。
内部は照明が最小限に抑えられており、太い梁と柱、傷や節がそのまま残る板壁が戦国時代の息吹を伝えます。木材の乾いた香りと、足を踏み出すたびに響く古い板の軋み——視覚だけでなく、嗅覚と聴覚でも歴史を感じられる空間です。壁面には当時の城の構造に関する展示パネルが設置されており、初めて訪れる方でも建築の特徴を理解しながら見学できるよう工夫されています。
外観では、石瓦の美しさを様々な角度から堪能してください。晴天の日には青空をバックに笏谷石の青灰色が映え、雨の日には濡れた石瓦がしっとりと深みのある色合いに変わります。天守を囲む野面積み(のづらづみ)の石垣も見逃せません。整形されていない自然石を積み上げた野面積みは、丸岡城の築城当時の技術をそのまま伝えており、石と石の間から生えた草が長い年月の経過を感じさせます。
- 内部の急勾配階段(傾斜約65度):ロープを使って登頂
- 笏谷石の石瓦:雨天時は青みを帯びた独特の美しさ
- 野面積みの石垣:築城当時の技術を伝える貴重な遺構
- 最上階からの眺望:坂井平野と竹田川流域が一望できる

霞ヶ城公園
丸岡城の周囲に広がる霞ヶ城公園は、約60,000平方メートルの広さを持ち、丸岡城を中心に整備された回遊式の公園です。公園内は天守の周辺に石垣や内堀の遺構が残るほか、芝生の広場、散策路、展望台などが整備されており、歴史散策と自然散歩を同時に楽しむことができます。特にインスタグラムやSNSで人気の写真スポットが点在しており、天守と季節の花々を組み合わせた撮影を楽しむ観光客の姿が多く見られます。
霞ヶ城公園の名物の一つが、全国でも屈指の規模を誇るソメイヨシノの桜並木です。約400本の桜の木が公園内に植えられており、毎年4月上旬ごろに一斉に開花する様子は「日本さくら名所100選」にも選ばれた絶景です。開花の時期には「丸岡城桜まつり」が開催され、夜間ライトアップも実施されます。提灯の温かな灯りに照らされた夜桜と天守のシルエットは、まさに幻想的の一言につきる光景です。
公園内には遊歩道が整備されており、城山をぐるりと一周することができます。一周の所要時間はのんびり歩いて30〜40分程度です。東側からは天守正面の全景が、北側からは石垣と天守の組み合わせが、西側からは霞ヶ池と天守のリフレクションが楽しめるなど、角度によって全く異なる表情を見せます。公園内にはベンチが各所に設置されており、天守を眺めながらゆったりと休憩できる環境が整っています。
また、公園内には「福井地震震災記念碑」も設置されています。1948年の福井地震で倒壊した丸岡城の記憶と、その後の復元への歩みが碑文に刻まれており、静かに手を合わせる観光客の姿も見られます。城の歴史を学ぶ場としてだけでなく、自然と歴史が調和した癒しの空間として、霞ヶ城公園は地元市民にも愛されています。
一筆啓上の碑
霞ヶ城公園内の一角に、ひっそりと、しかし確かな存在感を放つ石碑があります。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」——これが日本一短い手紙として全国に知られる「一筆啓上」の文面です。この手紙は、丸岡城の初代城主・本多重次(ほんだしげつぐ)が戦場から妻に宛てて書いたとされるもので、その簡潔ながら愛情深い文章が後世まで語り継がれています。
本多重次は徳川家康の重臣として数々の戦いに参加した武将で、1590年(天正18年)に丸岡城の城主となった人物です。「鬼作左(おにさくざ)」の異名を取るほど峻厳な武将として知られる一方で、戦場から家族を案じる人間的な温かさを持ち合わせていました。一筆啓上の手紙は、そんな重次の人間としての一面を凝縮した歴史的な名文として、国語の教科書や日本文化の紹介に度々引用されています。
「お仙」とは重次の息子・仙千代(後の本多成重)の幼名です。つまりこの手紙は「(奥さん、手紙を書きます。) 火事に気をつけろ。仙千代を泣かすな。馬をしっかり肥やしておけ」という内容で、家の安全、子育て、戦の準備という三つの要件を究極のシンプルさで伝えた名文です。現代でも「短く、的確に」の手本として語られ、ビジネスコミュニケーションの文脈で取り上げられることもあります。
石碑の前で写真を撮る観光客は後を絶たず、丸岡城を訪れた際の定番フォトスポットとなっています。石碑には手紙の全文が刻まれており、歴史的なエピソードを知ってから実際に文字を見ると、400年以上前に書かれたその言葉がより一層生き生きと感じられます。隣接する「日本一短い手紙の館」(後述)と合わせて訪れると、この文化的遺産のより深い魅力を発見できるでしょう。
日本一短い手紙の館
霞ヶ城公園のすぐ近くに、「日本一短い手紙の館(一筆啓上茶屋)」があります。ここでは本多重次の「一筆啓上」に触発して1993年(平成5年)から始まった「日本一短い手紙コンクール」の入賞作品が展示されており、現代の人々がテーマに沿って書いた心温まる短い手紙の数々を読むことができます。コンクールには毎年全国から数万通もの応募があり、子どもから高齢者まで幅広い層が参加する人気の文化イベントとなっています。
館内には歴代のコンクール入賞作品が壁面に展示されており、ユーモアあふれるものから深く心を打つものまで、様々な「短い手紙」の傑作を読み進めるうちに時間を忘れてしまうほどです。テーマは年によって異なり、「父」「母」「友」「愛」「夢」など、普遍的な人間関係や感情をテーマにした短文が全国から集まります。入賞した手紙の中には、後にCMや書籍で紹介されてさらに広く知られるようになったものもあります。
施設内には休憩スペースも設けられており、観光の合間にゆっくりと展示を楽しめます。売店では「一筆啓上」にちなんだオリジナルグッズや、越前の銘菓、丸岡城関連の土産物が販売されており、訪問の記念品を選ぶ楽しさもあります。また、施設の外観は丸岡城の和風建築に合わせたデザインとなっており、公園全体の景観と調和しています。施設の開館時間は季節によって異なりますので、訪問前に坂井市の公式サイトで確認することをおすすめします。
この施設が示すように、丸岡城は単なる歴史建造物の観光地にとどまらず、「短い手紙」という独自の文化コンテンツを生み出した土地でもあります。手紙文化の普及活動を通じて、丸岡城の名前は城郭ファンのみならず、言葉や表現に関心を持つ幅広い層にも届いています。歴史と文化が融合した丸岡城の多彩な魅力の一端を、ぜひこの館で体感してください。
春の桜と丸岡城
丸岡城の見どころを語るうえで欠かせないのが、春の桜との共演です。毎年4月上旬から中旬にかけて、霞ヶ城公園を囲むおよそ400本のソメイヨシノが一斉に花開きます。淡いピンクの花びらが城全体を包み込む光景は、どんなカメラの腕前の人が撮影しても絵になる、まさに日本の春の原風景そのものです。「日本さくら名所100選」に選ばれた丸岡城の桜は、全国の桜の名所の中でも特に写真映えすると評判で、開花シーズンには遠方からも多くの花見客が訪れます。
開花期には「丸岡城桜まつり」が開催され、期間中は天守の特別ライトアップが実施されます。夜間になると温かな光に照らされた天守が夜空に浮かび上がり、満開の桜と相まって日中とは全く異なる幻想的な雰囲気を醸し出します。夜桜を楽しむ観光客の歓声と、桜の花びらが風に舞う音、夜店の香りが公園全体を包む祭りのひとときは、丸岡城の春の風物詩となっています。
桜の見頃は年によって前後しますが、概ね4月5日〜4月15日ごろが最盛期です。開花情報は坂井市観光協会の公式サイトやSNSで随時更新されますので、訪問を計画される際は最新情報を確認してください。また、桜の季節は観光客が集中するため、早朝(8時台)の訪問がおすすめです。人の少ない朝の光の中に浮かぶ天守と桜は、昼間とは一味違う静謐な美しさを持っており、写真愛好家には特に人気があります。
桜以外の季節にも霞ヶ城公園は美しい表情を見せます。初夏から夏にかけては緑濃い木々に囲まれた清々しい景観が広がり、秋には銀杏や紅葉が公園を彩ります。冬は積雪があれば雪化粧をした天守を望むことができ、四季それぞれの丸岡城は訪れるたびに新しい発見をもたらします。北陸の冬は厳しいですが、雪の中に凛と立つ天守の姿もまた格別の風情があります。
周辺の観光スポット
丸岡城周辺には、北陸を代表する観光名所が点在しています。丸岡城の見学後にぜひ合わせて立ち寄りたいスポットをご紹介します。いずれも丸岡城から車で1時間以内に位置しており、日帰り旅行でも十分に回れる距離です。
永平寺
丸岡城から南東へ車で約30分(約20キロメートル)の距離に位置する永平寺(えいへいじ)は、1244年(寛元2年)に曹洞宗の開祖・道元禅師によって創建された禅宗の大本山です。福井県吉田郡永平寺町の深い杉木立の中に静かにたたずむこの寺院は、現在も200名以上の修行僧が厳しい修行に励む現役の修行道場であり、歴史的な伽藍と生きた宗教文化が共存する特別な空間です。
境内には七堂伽藍(法堂、仏殿、僧堂、庫院、山門、東司、浴室)をはじめとする70以上の建物が複雑に連なり、回廊で結ばれた広大な境内は山の傾斜を巧みに利用した立体的な構造を持っています。苔むした石畳を歩き、天井まで届く杉の巨木に圧倒されながら歩む永平寺の参道は、日常の喧騒を忘れさせる別世界です。神社参拝ガイドと合わせて読めば、日本の宗教文化の多様性をより深く理解できるでしょう。年間参拝者数は約90万人を誇り、国内外から多くの参拝者が訪れる北陸随一の名刹です。丸岡城と永平寺を組み合わせた「歴史と禅の旅」は福井観光の定番コースとなっています。

東尋坊
丸岡城から北西へ車で約25分(約18キロメートル)の位置にある東尋坊(とうじんぼう)は、日本海に面した断崖絶壁で知られる絶景スポットです。約1キロメートルにわたって続く柱状節理(ちゅうじょうせつり)の岩壁は、地質学的にも非常に珍しい構造を持ち、国の天然記念物・特別天然記念物に指定されています。世界三大断崖の一つとも称されるこの絶壁は、最も高い場所で約25メートルを超える高さがあり、荒波が打ち寄せる様子は迫力満点です。
東尋坊の名前は、平安時代に乱行を続けた平泉寺(現在の勝山市)の僧・東尋坊がここで崖から突き落とされたという伝説に由来しています。岩場を歩きながら眺める日本海の大パノラマは晴天の日には視界が広がり、沖合の雄島(おしま)や遠く能登半島まで見渡せることもあります。遊覧船に乗って断崖を海から眺めるツアーも人気で、陸上からは見えない洞窟や岩の造形美を堪能できます。東尋坊商店街では名物のかにや海鮮料理も楽しめるため、丸岡城観光と組み合わせた食事付きのドライブコースとして多くの観光客に利用されています。
福井市内・恐竜博物館方面
丸岡城から南へ車で約30分(約25キロメートル)の距離に位置する福井市内と、さらに南の勝山市にある福井県立恐竜博物館は、家族連れの観光客に特に人気のスポットです。「恐竜王国福井」の異名を持つ福井県は、国内最多の恐竜化石発掘実績を誇り、恐竜博物館はその研究成果を世界最高水準の展示で公開しています。ドーム型の建物内に広がる恐竜の世界は、子どもから大人まで夢中にさせる迫力と充実した展示内容を誇ります。
福井市内では、城址公園に建つ福井城址(福井県庁が置かれている)や、天正年間に建てられた一乗谷朝倉氏遺跡も歴史ファンには外せないスポットです。一乗谷は戦国時代に越前を支配した朝倉氏の城下町遺跡で、武家屋敷や町並みの遺構が発掘・復元されており、往時の城下町の姿をリアルに体感できます。丸岡城(現存天守)と朝倉氏遺跡(城下町遺跡)という二つの異なる歴史遺産を組み合わせることで、越前の歴史をより立体的に理解できます。大阪城の歴史についても合わせて読むことで、近世城郭の発展史を深く学ぶことができます。
アクセス方法
丸岡城は福井県坂井市に位置しており、福井市から北方向へ約18キロメートルの距離にあります。北陸新幹線の開業(2024年3月)により、東京・名古屋方面からのアクセスが格段に向上しています。以下に各交通手段でのアクセス方法をまとめました。
電車・バスでのアクセス
北陸新幹線を利用する場合、東京駅から「かがやき」「はくたか」を利用して福井駅まで約2時間30分〜3時間程度です。名古屋方面からはしらさぎ号(特急)を利用して福井駅まで約1時間30分です。福井駅からはJR北陸本線に乗り換えて丸岡駅(もしくは芦原温泉駅)まで約15〜20分。丸岡駅からは京福バス「丸岡城線」に乗車し「丸岡城」バス停下車後、徒歩約5分です。なお、バスの本数は1時間に1〜2本程度と多くはないため、事前に時刻表を確認することをおすすめします。
車でのアクセス・駐車場
北陸自動車道「丸岡IC」から約5分というアクセスの良さで、車での来訪が最も便利です。大阪・名古屋方面からは名神高速・北陸道を利用。東京・関東方面からは関越・北陸道を利用します。城の周囲には「霞ヶ城公園駐車場」(無料、乗用車約150台)が整備されており、観光シーズンを除けば駐車に困ることはありません。桜まつりの期間中は臨時駐車場が設けられますが、混雑することがあるため、できるだけ早めの来訪をおすすめします。
- 北陸新幹線:東京駅〜福井駅 約2時間30分〜3時間
- 特急しらさぎ:名古屋駅〜福井駅 約1時間30分
- JR北陸本線:福井駅〜丸岡駅 約15〜20分
- 京福バス:丸岡駅〜丸岡城 約10分(乗車時間)
- 車:北陸自動車道 丸岡ICから約5分
周辺の宿泊施設
丸岡城周辺には丸岡市街地のビジネスホテルのほか、近くの芦原温泉(あわら温泉)に多数の旅館・ホテルが立地しています。芦原温泉は「北陸の奥座敷」と呼ばれる名湯で、丸岡城から車で約20分の距離にあります。丸岡城観光と温泉宿泊を組み合わせた旅程は、越前の旅として理想的なプランです。日本の旅館文化についてご興味のある方は旅館ガイドも参考にしてください。
まとめ
丸岡城は、現存天守12城の一つとして450年近い歴史を持つ北陸を代表する名城です。笏谷石の石瓦が美しい独特の天守閣、急勾配の内部階段が生む歴史の迫力、春には400本の桜に彩られる霞ヶ城公園、そして「一筆啓上」という日本一短い手紙が生まれた文化的背景——いくつもの魅力が重なり合い、訪れるたびに新しい発見をもたらしてくれる場所です。
福井地震で倒壊しながらも、地域の人々の熱意によって復元されたこの天守は、物言わぬながらも日本人の歴史への真摯な向き合い方を私たちに教えてくれます。現存天守12城の旅を計画している方は、ぜひ丸岡城を行程に加えてください。同じく現存天守を持つ犬山城や備中松山城との比較訪問も、日本の城郭建築の多様性を理解するうえで非常に有益です。また、歴史の重みを感じる旅の締めくくりとして、首里城など各地の歴史的城郭を巡るのもおすすめです。


