🕓 2025/7/05
#観光地
星形の要塞が火線に包まれたあの日から、百五十年

目次
はじめに
津軽海峡を渡る潮風に乗って、函館の空に五つの光が瞬く――星形要塞・五稜郭。ここは、新政府に追われた旧幕臣と新選組が「最後の希望」を賭けて立て籠もり、わずか七か月だけ存在した“蝦夷共和国”の舞台です。函館湾にこだまする砲声から、桜が映える現在の城跡まで――150 年を一気に駆け抜ける旅へ、ご案内しましょう。
なお、各章のビジュアルは読者のみなさまに情景をより鮮明に思い描いていただくため、AIで生成したイメージを使用しています。実際の景観とは異なる場合がありますので、あくまで補助的な参考としてお楽しみください。
1. 五稜郭と新選組の物語
霧の函館、星を映す城――
津軽海峡からの潮風が漂う夜明け前、かつてこの地には北の空を切り裂く五つの稜線があった。フランス築城学で設計され、白雪の大地に浮かぶ星形要塞 五稜郭。その内側には、旧幕臣たちが夢見た「もう一つの日本」が確かに息づいていた。
榎本武揚が掲げた蝦夷共和国、そして 新選組副長・土方歳三 が託した“最後の意地”。五稜郭は単なる防衛拠点ではなく、滅びゆく幕府が未来に懸けた—いや、賭けざるをえなかった—希望そのものだった。
しかし、星形の城はやがて弾雨に包まれ、理想を抱いた若き侍たちは銃声の中で散った。今、堀に映るのは静かな空だけ。土塁の上に立てば、時代の残響が薄霧とともに身を包む。
なぜ彼らは極寒の地へ赴き、勝ち目のない戦いに挑んだのか。
その問いは、星形要塞に潜む“炎と霜”の物語へと私たちを誘う。
第1章:星形要塞に託した「もう一つの日本」
1868年10月、江戸湾を静かに離れた旧幕府艦隊――その数8隻。
甲板に立つ総指揮官 榎本武揚 の行き先は、まだ未開の地だった蝦夷(北海道)です。榎本が本拠地に選んだのは、フランス築城学で設計された最新鋭の要塞 五稜郭。星形に広がる堀と土塁は、大砲の砲撃をいなすための西洋式デザインで、完成してまだ2年しか経っていませんでした。
12月、榎本らはここで 「蝦夷共和国」 を宣言します。
総裁(大統領)に榎本、副総裁に松平太郎。しかも閣僚は士族だけとはいえ選挙で選出――日本史上初めて「共和制」を名乗った国家が誕生した瞬間です。
幕府という大樹が倒れたあとも、理想の国を築きたい――その最後の望みを、彼らは北の星形要塞に託したのでした。
第2章:北へ――新選組・土方歳三、最後の賭け
幕府が崩れ、江戸から落ち延びた新選組の生き残りたちは、行き場を失っていました。副長 土方歳三 もその一人――京の市中取締で“鬼の副長”と恐れられ、鳥羽伏見・甲州勝沼でも戦いましたが、つねに敗走。
土方がたどり着いた先が、榎本武揚の率いる旧幕府艦隊と合流した 五稜郭 です。
星形要塞の堀と土塁に囲まれた塹壕線に立ったとき、土方はまだ 35歳。
「ここが、俺たちが“本当に戦える”最後の場所だ──」
勝ち目が薄いことは、彼自身がいちばんわかっていました。それでも、武士としての矜持を守るため、彼はこの北の果てを“反撃の舞台”に選びます。やがて津軽海峡に新政府軍の軍艦が集まり、函館湾に上陸してくるその日まで、土方は兵の士気を高め、五稜郭防衛の最前線に立ち続けました。
第3章:血風の箱館戦争――銃声と咆哮
1869年4月、まだ雪の名残が漂う函館湾に、新政府軍およそ 3万人 がいっせいに上陸した。彼らが持ち込んだのは、旧幕府軍には数えるほどしかない ガトリング砲 と アームストロング砲――当時最強クラスの連発兵器と高性能砲だ。海上の艦砲射撃と陸からの砲撃が重なり、星形要塞 五稜郭 はまるで火の十字路に閉じ込められたかのようだった。
そんな砲煙の中で最前線に立ったのが、副長 土方歳三 率いる歩兵連隊である。土方は最新式のスナイドル銃を配り、要所 一本木関門 の木柵を盾に反撃を指揮した。5月11日未明、土方は太ももを撃たれながらも馬にまたがり、「引くな、撃ち返せ!」と兵を鼓舞。だが次の瞬間、胸を貫いた銃弾が彼を馬上から落とした。
土方歳三、享年35。午後には関門が突破され、旧幕府軍は陣地を次々と失う。奇しくも 5月11日 は、今も五稜郭公園で 「戦没者慰霊祭」 が営まれる日だ。祭壇には白菊が手向けられ、星形の堀に映る水面が、土方の最期を静かに語り継いでいる。
第4章:土方散り、星は落ちた――降伏までの八日間
副長・土方歳三が戦死した 5 月 11 日――それは旧幕府軍にとって“最後の柱”が折れた瞬間だった。
以降の八日間、榎本武揚は五稜郭の石垣に登り、望遠鏡で前線を見渡すたびに、砲撃の土煙が日に日に近づいてくるのを感じていた。弾薬と食糧は底を突き、味方の砲声は次第にまばらになる一方、新政府軍の砲弾だけが絶え間なく星形要塞を撫でていく──。
5 月 18 日早朝、榎本は腹心たちを集めて「民間人を巻き込まず、この要塞を未来に残す」と降伏を決断。昼過ぎ、五稜郭の正門に白旗が掲げられ、降伏文書が新政府軍へ手渡された。星形の土塁も堀もほぼ無傷のまま明け渡され、ここに 箱館戦争は終結。“蝦夷共和国”が歴史に刻んだ生命線は、わずか 半年 だった。
しかし、土方歳三の最期と要塞防衛の粘りは、敵方の戦記にまで
「武士道、ここに極まる」
と記される。降伏後、五稜郭を視察した新政府軍士官は、崩れた柵に血の跡を見つけ、「これぞ士魂」と日誌に残したという。
星形の城は落ちた。けれど、その中で燃え尽きたものは、敵味方を越えた敬意とともに語り継がれ、今も函館の空に静かな余韻を漂わせている。
第5章:遺志は北の星とともに――五稸郭を歩く
箱館戦争が終わったあと、五稜郭は長く荒れ地のまま放置され、土手に牛が草を食むだけの光景だった。
しかし昭和30年代、地元市民の「星形の城を未来へ残そう」という声をきっかけに、公園としての整備が始まる。やがて堀は浚渫され、桜が植えられ、星の輪郭が再びくっきり浮かび上がった。
そして2010年、要塞の中心にあった 箱館奉行所 が当時の図面と伝統工法で復元される。白壁と瓦屋根が星形の土塁に映え、往時の役所空間をそのまま歩けると評判だ。内部には 新選組コーナー が設けられ、羽織レプリカや土方の佩刀(複製)が展示されている。
公園の南端に立つ 五稜郭タワー に上ってみよう。展望台から見下ろす星形は、まるで巨大な軍旗のように整然としている。春は桜色、夏は深緑、冬は純白――季節ごとに装いを変える堀を眺めながら、ふと一本木関門方向に目を移すと、土方歳三が倒れた場所を示す石碑が小さく光る。
土塁を歩けば、ところどころに残る土砂の凹みが銃座跡だとわかる。指で触れると、湿った風の向こうから遠い銃声が聞こえてくるようだ。
理想のために散った者たちの夢を、あなたはどう受け取るか。
星形の城は、訪れる人それぞれにそっと問いを投げかける。土方の決意、榎本の理想、市民が守り継いだ風景――五稜郭に立つと、そのすべてが静かに胸に降り積もる。北の空に瞬く星と要塞の稜線は、今もなお「最後の侍たち」の遺志を映し続けている。
2. 年表ダイジェスト
幕府艦隊の北走から“共和国”の崩壊、そして星形要塞が公園へ生まれ変わるまで――五稜郭の150年は、日本が武士の時代から近代国家へと転じる縮図そのものだ。
わずか7か月で散った蝦夷共和国の残響は、石垣を残して静かに風化したが、昭和期には「星形の城を未来に残したい」という市民の声で公園化が進行。戦後は特別史跡として保護され、2010年には箱館奉行所が復元されて“生きた歴史空間”として再生した。
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図面と古写真の“パズル復元”――設計図の再構築
明治初年に撮影された2枚のガラス乾板写真、文久年間の「御役所絵図」、そして開拓使時代の実測図──バラバラに残った資料を重ね合わせ、柱間寸法や屋根勾配を割り出す作業から復元プロジェクトは始まった。CAD上で再構成された12枚の詳細図面が、木材一本・瓦一枚まで寸法を示す“原寸テンプレ”となり、2006年の着工を可能にした。
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遺構が語る間取り――2003–06年の発掘調査
五稜郭内で行われた3年間の発掘で、主屋礎石159個、太鼓櫓礎石72個、井戸跡2基がほぼ当時の位置で確認された。戦時に撃ち込まれたミニエー弾や陶片も出土し、部屋割りと動線が実測データで裏づけられる。報告書5冊分の図面は、現場監理チームの“現場マニュアル”としてそのまま施工図に転写された。 -
材料と職人――道南材×伝統工法のこだわり
構造材には道南スギとエゾマツ、屋根には青森ヒバのこけら板を使用。プレカット機械は使わず、全国から集まった宮大工70人が追掛大栓継・込み栓を“手刻み”で再現した。塗り壁は土佐漆喰、瓦は江戸期と同じ鉛瓦を採用し、開港当時の外観を忠実に再現している。 -
工程とスケジュール――星形の中心をつくる4年計画
2006年基礎工事、2008年上棟、2010年竣工。延床979㎡に材木およそ1,800本を投入し、石垣補強→主屋→長屋→太鼓櫓の順で“内芯から外郭へ”建て起こす耐震型手順を採用した。施工中も発掘が続き、見つかった礎石は図面と1cm単位で照合のうえ据え直されている。 -
特別史跡と現代法規――保存と安全のせめぎ合い
五稜郭跡は1952年に特別史跡指定。基礎掘削は文化庁と北海道教委の立会いのもと深さ30 cm以内で制限され、コンクリート耐圧盤の使用も禁止された。一方、消防法により屋内消火栓・スプリンクラーを“見えない位置”に隠設し、伝統建築の外観を損なわない形で最新の防災基準をクリアしている。
幕末の銃声が去って 150 年あまり。星形要塞を歩けば、要所ごとに 箱館戦争の“生きた証拠” が今も残っています。下の5スポットを巡れば、土方歳三や旧幕府軍が見た景色と同じ視点で歴史を追体験できます。
体験ポイント | 見どころ |
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① 五稜郭タワー展望台 | 星形要塞を真上から一望。1階アトリウムには土方歳三ブロンズ像と戦況年表。 |
② 箱館奉行所内部 | 2010 年復元。玄関脇に新選組・旧幕府軍のパネル&刀剣複製展示、当時の弾痕付き梁を保存。 |
③ 土方歳三最期の地碑 | 函館駅から徒歩 15 分。石碑前には毎年 5/11 に慰霊祭が行われ、花束が絶えない。 |
④ 土塁と長斜坂の銃座跡 | 星形の稜堡外側に続く緩斜面「長斜坂」。土塁の法面には 24 ポンド砲を据えた砲座の窪みが残る。 |
⑤ 四稜郭(権現台場) | 五稜郭の鬼門を守った副要塞。石鳥居には今も弾痕が点在、土塁が原形で残る。 |
さいごに
五稜郭に刻まれた物語は、敗北譚で終わる悲劇でも、単なる観光名所の由来でもありません。星形の堀に映る空は、蝦夷共和国という“あり得たかもしれない日本”を今も静かに映し出し、そこに散った若き侍たちの理想と矜持を私たちに手渡しています。
「勝てぬと知りながら戦う意味はあるのか」――土方歳三が胸に抱いた葛藤は、時代こそ違えど、変化の波に立たされる現代の私たちにも響く問いでしょう。星形の土塁に立つと、歴史の一コマへ“観客”としてではなく、“継承者”として招かれていることに気づきます。
もし函館を訪れたなら、タワーからの俯瞰だけで満足せず、ぜひ土塁の上を歩き、銃座の窪みに手を触れ、奉行所の床板を踏みしめてみてください。
風が運ぶ潮の匂いとともに、遠い砲声がかすかに胸を震わせるはずです。
星形の城は語りかけます。
「理想を抱いた者たちの“最後の星”を、あなたはどう受け取り、未来へつなげるのか」
その問いへの答えは、堀に映るあなた自身の姿の中にあるのかもしれません。