🕓 2024/11/22
#観光地
皇居の歴史や概要を詳しく解説
目次
はじめに
東京の中心に位置する皇居は、その歴史とともに日本の象徴として君臨しています。かつて江戸城として知られたこの地は、現在では天皇の公式な住居として、また国家的な式典の舞台として利用されています。皇居の周囲に広がる庭園や建築物は、日本の伝統と自然の美を映し出しており、一年を通して多くの訪問者を魅了しています。
本記事では、まず皇居の概要をご紹介し、次にその長い歴史と重要な出来事を解説します。さらに、東御苑や二重橋などの見るべきスポット、皇居で行われる重要なイベントや季節の祭り、そして訪問の際に知っておくべきアクセス情報についても詳しくご案内します。
この記事を通じて、皇居の壮大な景観と共にその背後にある歴史と文化を理解いただき、その壮大なる美と歴史を存分にお楽しみいただけると嬉しいです。
1. 皇居の概要
皇居は、日本の象徴的な存在であり、国の最高権威である天皇の公式な住居として知られています。この広大な施設は、かつて江戸城だった場所に位置しており、東京都千代田区の南部に約2割の面積を占めています。1868年に江戸城から改称された後、一時期は宮城とも称されていましたが、1948年に現在の「皇居」という名前に戻されました。
皇居の敷地内には、天皇が日常的に住む「御所」や様々な公的行事が行われる「宮殿」があります。また、皇居東御苑などの庭園が一般公開されており、多くの観光客や市民が訪れる場所となっています。特に皇居東御苑は、旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を含む庭園で、1961年に一般に公開されました。この庭園は、昭和天皇の発案によるもので、日本庭園の美しさを楽しむことができます。
宮殿は、国事行為や皇室行事、外国元首の歓迎行事などが行われる場所で、その建築は日本古来の美を取り入れた設計で、ほとんどの建材が国産のものを使用しています。主要な建物には正殿、豊明殿、連翠などがあり、それぞれに独自の役割と歴史があります。
東京の皇居は、その広大な敷地と緑豊かな庭園が、都市の中心に位置しながらも、現代的なビル群とは一線を画す、時間が止まったかのような静謐な空間を提供しています。ガラスと鋼鉄で構成された摩天楼が立ち並び、日々の喧騒と活気に満ちています。しかし、皇居の内部に足を踏み入れると、そこには別世界が広がっており、古い石垣や慎重に手入れされた松の木、静かに流れる堀の水、そして季節の花々が織りなす自然の美しさがあります。
皇居は、歴史的背景と現代における文化的な役割を通じて、日本国内外から多くの訪問者を惹きつけています。その美しい庭園や歴史ある建物が日本の伝統と文化を象徴する場となっており、日本を代表する観光地の一つです。
2. 皇居の歴史
■ 室町時代〜江戸時代
皇居の歴史は、その土地がかつて江戸城であった時代に遡ります。1457年、武蔵国の支配を担う太田道灌によって築城されたこの城は、戦略的な要所としての役割を果たしていました。後に、徳川家康によって1603年に幕府の政治の中心地として選ばれ、大きく拡張されました。この拡張により、江戸城はその後の約260年間、日本の政治と文化の中心として繁栄しました。
江戸時代を通じて、江戸城は多くの改築と拡張が行われ、壮大な城郭としての地位を確立。城内には本丸、二の丸、三の丸など複数の区画が設けられ、幕府の要人が居住するとともに、政治の場としても機能しました。また、江戸城はその巨大な構造と豪華な装飾で知られ、多くの文化財を有していたことでも知られています。
■ 明治時代〜昭和時代
1868年に明治天皇が京都から東京に行幸したことにより、江戸城は「皇居」として新たな時代を迎えました。この時期、皇居は日本の近代化と文明開化の象徴となり、多くの建築的及び社会的変革が加えられました。
明治時代に皇居として再編された後、1888年から1948年までは「宮城」とも呼ばれ、その間にはさまざまな建築変更が行われました。特に重要なのは、1888年に建設された新宮殿で、日本の伝統的な建築様式と西洋の建築技術が融合された形式で設計されました。しかし、この宮殿は第二次世界大戦中の空襲で焼失し、戦後には焼失した宮殿の再建が遅れることとなりました。
戦後、1948年に「宮城」という名前が公式に「皇居」と改められ、新たな時代が始まりました。その後、1959年には皇居造営審議会の答申に基づいて、新宮殿の建設が開始され、1968年に竣工しました。この新宮殿は、従来の御所とは別に設けられ、天皇家の公務に利用されています。
■ 平成時代〜現在
平成から現在にかけての皇居は、その歴史的および文化的重要性を保ちながら、現代の変化に対応する多くの発展を経験しました。この期間には、皇居が国内外の様々なイベントの舞台となり、また公共のスペースとしての役割を担ってきました。
平成時代の始まりとともに、皇居はその開放性を増し、一般市民に庭園や歴史的建造物を公開することが多くなりました。特に、皇居東御苑は一般に開かれ、その美しい庭園や古い建築が訪れる人々に親しまれています。ここでは、かつての江戸城の天守閣があった場所をはじめ、多くの歴史的な遺構を見ることができます。
現代の皇居は、多くの文化的、歴史的イベントの会場としても利用されており、日本の伝統文化や芸術を紹介する展示会やコンサートなどが定期的に開催されています。これにより、皇居は日本の文化的中心地としての役割も果たしています。歴史を感じさせると同時に、都市のオアシスとしての役割も担っています。
3. 皇居の見るべきスポット
■ 楠木正成像
皇居外苑にある楠木正成像は、高さ約8メートルの迫力ある銅像で、東京の三大銅像の一つとして知られています。楠木正成は、後醍醐天皇の倒幕計画に同調し、兵衛尉の官名を与えられました。忍者の家系であった服部家との姻戚関係により、忍者の戦術を駆使して倒幕の成功に貢献しました。
この像は、楠木正成が後醍醐天皇を出迎えた際の勇姿を表しており、馬を制しながら手綱を引き、頭を垂れて拝礼する姿が描かれています。1891年に東京美術学校(現・東京藝術大学)によって製作され、使用された銅は愛媛県の別子銅山から提供されました。
■ 桔梗門
桔梗門は、内桜田門とも呼ばれ、外桜田門(現在の桜田門)と対をなす門です。江戸時代から「桔梗門」という別称が用いられており、この名前の由来には諸説ありますが、一つは寛永の頃、上洛後の御帰京の祝儀を表したことから、もう一つは徳川家康入府の際に太田道灌時代の桔梗紋の瓦が見つかったためとされています。今でも門の鬼瓦には桔梗紋が施されており、その歴史的な重要性を象徴しています。
桔梗門自体は1614年(慶長19年)に建造され、その周囲の石垣は1620年(元和6年)に築かれました。現在でも、高麗門と渡櫓門からなる枡形の構造が残っており、これらの門は江戸城の防御体系の一部として、かつての戦略的な設計を今に伝えています。
桔梗門は、その美しい建築様式と共に、江戸時代の政治的および軍事的な背景を色濃く反映した重要な歴史的遺産であり、訪れる人々にその時代の雰囲気を感じさせる場所です
■ 大手門
大手門は、江戸城と城下町を結ぶ主要な門で、江戸時代を通じて徳川幕府の表門として機能していました。この門は1607年に藤堂高虎によって建造され、後に伊達政宗によって修復されました。膨大な費用と労力が投じられたこの門は、城内への主要なアクセス点として、また戦略的な防御構造として重要な役割を果たしていました。
大手門の前には「下馬所」が設けられ、大名以外の従者はここで馬から降りて徒歩で登城しました。現在も残る大手門は、高麗門(一ノ門)、桝形広場、渡櫓門(二ノ門)の形で存在しており、石垣には敵を射落とすための「石狭間」が設けられています。大手門は江戸時代の終わりまで、幕府の権威を象徴する重要な建築として機能しました。
■ 桜田門
桜田門は、江戸城の重要な門の一つで、特に1860年に大老井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」でその名が広く知られるようになりました。この事件により、門は日本の歴史において重要な象徴とされています。正式には「外桜田門」と呼ばれ、内桜田門(桔梗門)と対をなす門です。
外桜田門は1620年に完成し、石垣と枡形の強固な構造が特徴です。1636年には、さらに修築され現在の形に改築されました。この地域がかつて「桜田郷」と呼ばれていたことから、「桜田門」という名が付けられました。関東大震災で破損した後、再建され、1961年には国の重要文化財に指定されました。
■ 正門鉄橋
正門鉄橋は、皇居前広場から宮殿までの濠に架かる二つの橋のうちの一つで、手前に位置する正門石橋と共に、広く「二重橋」と総称されますが、正式には「二重橋」とは正門鉄橋のことを指します。この鉄橋は、かつて「西の丸下乗橋」として知られる木橋があり、その橋が濠の深さに対応するために二重構造で設計されていたことから、その名が付けられました。
正門鉄橋は1888年に鉄橋として初めて架けられ、1964年に現在の形に修繕されました。この際、日本で初めて亜鉛溶射が使用されるなど、先進的な防錆技術が導入されています。橋は通常、一般公開されておらず、新年の一般参賀や外国賓客の皇居訪問などの公式行事の際にのみ使用されます。
一方、手前に架かる正門石橋は、西洋建築の影響を受けた設計で、花岡岩が使用されています。この二つの橋は、皇居前広場の美しい景観の一部として、また日本の歴史を象徴する重要な構造物として、多くの訪問者に親しまれています。
■ 伏見櫓
伏見櫓は、東京の皇居西ノ丸に位置する歴史的な構造物で、その名前は京都伏見にあった伏見城の櫓が移築されたことに由来します。この伝統的な日本の建築は、もともと豊臣秀吉が築城した伏見城に属していたもので、後に徳川家光の命により江戸城に再建されたとされていますが、この話は確証がなく憶測の域を出ません。
伏見櫓は、防御目的を兼ねて石垣の上に建てられた多聞櫓を伴い、白壁の櫓とともに美しい景観を形成しています。関東大震災で倒壊した後、解体され復元されたため、現在の構造は当時のものを忠実に再現したものです。
この櫓は皇居前広場から見ることができ、手前にある正門石橋の西欧的な建築美と日本の伝統的な城郭美が見事に融合しています。特に観光客や修学旅行生に人気が高く、多くの人々が記念写真を撮るスポットとしても知られています。
■ 富士見櫓
富士見櫓は、東京の皇居内にある三重の櫓で、江戸城本丸の南端、中雀門を入って左手に位置します。この櫓は高さ約16メートルであり、どの角度から見ても均等な形状をしているため、「八方正面の櫓」とも称されています。富士見櫓は、1657年の明暦の大火で天守閣が焼失した後、その代わりとして重要な役割を担った建物です。
富士見櫓の最初の建造は1606年(慶長11年)に遡り、その櫓台の石垣は加藤清正によって築かれたもので、城内に残る最も古い石垣の一つです。1659年(万治2年)には再建され、その後も幾度かの改修を経ています。特に関東大震災時には大破し、旧材を利用しての再建が行われました。
この櫓からは、かつて富士山や秩父連山、筑波山、東京湾などを一望でき、その景色の美しさから富士見櫓と名付けられました。また、太田道灌が詠んだ歌の地としても知られ、「わが庵は松原つづき海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」という一節に影響を受けた場所とされています。
■ 二の丸庭園
二の丸庭園は、東京の皇居東御苑内に位置する日本庭園で、江戸時代の九代将軍家重の時代の庭絵図面を基に1965年(昭和40年)に復元されたものです。この庭園は、将軍の世嗣や将軍正室のために設けられた二の丸御殿周辺に位置し、1630年(寛永7年)に著名な武家茶人・小堀遠州によって初めて作庭された歴史を持ちます。
二の丸庭園は、池泉回遊式の庭園として設計され、その美しい景観は鑑賞や遊興の場として江戸時代から親しまれてきました。庭園の主要な特徴は、自然を巧みに取り入れた配置と、四季折々の植物が織り成す風景です。昭和35年には皇居東地区の一部として皇居附属庭園として整備され、1968年(昭和43年)に完成し、その後公開されました。
庭園の設計には、歴史的な文献として残されていた九代将軍家重の庭絵図面が用いられ、昔の姿を忠実に再現する努力がなされています。
■ 江戸城天守閣跡
江戸城の天守閣跡は、現在の皇居東京の本丸に位置しています。この場所にはかつて、江戸幕府の権威を象徴する壮大な天守閣がありましたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼失し、その後再建されることはありませんでした。
この天守閣の石垣は、江戸三大大火の爪跡として煤で黒く染まっています。天守閣の台に登る少し手前には、「金明水」と呼ばれる井戸があります。この井戸は戦時の篭城を想定して掘られたもので、家光時代に小天守地階にも存在していました。この井戸からの水は、天守閣が機能していた時代には重要な水源とされていました。
天守台自体は、加賀藩前田家の普請によって高さ18mの花崗岩で築かれたもので、四代将軍家綱の叔父保科正之の提言により、その後の時代に天守閣を再建することはありませんでした。この提言は、戦国時代の象徴とされる天守閣が時代遅れであると考えられ、城下の復興を優先すべきだとされたためです。頂上は広いスペースとなっており、中央にベンチが設置されていて、訪れる人々が休憩を楽しむことができます。
■ 宮内庁庁舎
宮内省庁舎は、東京の皇居内に位置し、その歴史と建築様式が日本の近代建築史において重要な役割を担っています。元々の建物は英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された洋風建築でしたが、関東大震災で大破し、その後撤去されました。現在の宮内省庁舎は、その後に建て替えられたもので、昭和10年(1935年)に完成しました。
新しい庁舎のデザインは、先代の純然たる西洋建築から変わり、和風の要素を多分に取り入れた外観が特徴です。宮内省庁舎は、一時期仮宮殿としても使用されました。昭和20年5月の空襲で皇居が被災し、明治宮殿が焼失したことにより、昭和27年(1952年)に庁舎の3階が改装され、昭和43年(1968年)に新宮殿が完成するまで、仮宮殿として機能しました。
この庁舎は、現在も宮内庁庁舎として利用されており、正月の一般参賀や天皇誕生日の一般参賀など、皇居内の公式行事に際して重要な役割を果たしています。また、通常の皇居内見学でも立ち入ることが可能です。
■ 宮殿
宮殿は、日本の天皇が国事行為や皇室行事などの公式な儀式を行うための施設で、1969年(昭和44年)4月から使用が開始されました。この施設は、焼失した明治宮殿の跡地に建設されたもので、皇居西の丸地区に位置しています。新宮殿とも称されるこの建物は、鉄骨鉄筋コンクリート造りで、地上2階、地下1階から成り立ち、延床面積は約35,789.89平方メートルに及びます。
関東大震災を生き延びたが、太平洋戦争中の1945年5月25日の大空襲で明治宮殿は焼失しました。その後、一時的に宮内庁庁舎の一部を改装し仮宮殿として使用されていましたが、国際的な交流の増加と共に新たな宮殿の再建が計画されました。1964年(昭和39年)に新宮殿造営工事が始まり、1968年(昭和43年)11月14日に竣工しました。
日本古来の建築美を現宮殿は、国家的な行事や公の儀式の場として機能し、明治宮殿にあった居住部分を含まない構成であり、主に公式の場として使用されます。具体的な建物としては、正殿、豊明殿、連翠、長和殿、千草・千鳥の間があり、それぞれの建物は特定の儀式や行事に対応するための設計が施されています。また、美しい中庭、東庭、南庭がこれらの建物に面しており、季節ごとに異なる自然の美を提供しています。
4. 天皇陛下のお仕事場「宮殿」
■ 中門(なかもん)~東庭(とうてい)
毎年、新年と天皇陛下の誕生日には、一般国民が中門から長和殿を望むことができます。この時、天皇陛下は皇后陛下や他の皇族と共に長和殿の中央ベランダに立ち、集まった人々からの祝福を受け、お言葉を述べられます。
■ 南溜(みなみだまり)
広さ528平方メートルの南溜は、山口県産の黒御影石や宮崎県産の日向松、沖縄県産の勝連大理石など高級素材で装飾されており、その豪華さが際立っています。天井には重さ2.3トンの巨大なシャンデリアがあり、クリスタルガラスが美しく輝いています。
■ 波の間(なみのま)
波の間は、広さ248平方メートルの部屋で、熊本県産の市房杉や静岡県産の松が使用されています。壁面には、東山魁夷による大壁画「朝明けの潮」が展示されており、青海島の自然美を表現しています。
■ 回廊(かいろう)
長さ74メートルの回廊は、宮殿内を移動する際に使用される通路で、国賓の訪問時には特に重要な役割を果たします。壁には四季をテーマにした絵画が飾られ、訪れる人々を魅了します。
■ 千草・千鳥の間(ちぐさ・ちどりのま)
この部屋は通常一つとして使われ、神奈川県産の松や奈良県産の春日杉が使用されています。特に曲面天井のデザインが特徴的で、日本の職人技が光る空間となっています。
■ 北溜(きただまり)
北溜は広さ375平方メートルで、内外の要人が天皇陛下に挨拶をする際に使用される空間です。壁には正倉院宝物を模した七宝焼きの壁飾があり、日本の伝統美を今に伝えます。
■ 石橋の間(しゃっきょうのま)
石橋の間は、広さ245平方メートルで、熊本県産の市房杉や宮崎県産の日向松などが使用されています。この部屋の壁には、前田青邨作の壁画「石橋」「白牡丹」「紅牡丹」が掛けられており、日本の自然と美を象徴する作品として訪れる人々を魅了しています。
■ 春秋の間(しゅんじゅうのま)
春秋の間は、608平方メートルの広さを誇り、宮殿内では二番目に広い部屋です。この広間の壁面には、「清光」「寂光」と題された綴れ織りの壁画があり、それぞれ春と秋の情景を描いています。床には「雲」を模したカーペットが敷かれ、空間全体に豊かな文化的意匠を加えています。
■ 豊明殿(ほうめいでん)
豊明殿は、宮殿内で最も広い部屋であり、915平方メートルの広さがあります。部屋の名前は古代の饗宴に由来しており、壁には中村岳陵の綴れ織り「豊幡雲」が、床には杉山寧作の「草」をデザインしたカーペットが敷かれています。
■ 連翠(れんすい)
連翠は、371平方メートルの部屋で、用途に応じて二つの部屋に分けることができる間仕切り壁が設けられています。桂離宮の松琴亭を模した市松模様の襖が特徴で、和の美を現代に伝える空間となっています。
■ 竹の間(たけのま)
竹の間は、全て木曽檜を使用した182平方メートルの部屋で、竹模様の裂地が壁に施されています。また、室内には福田平八郎作の「竹」と加藤土師萌の「緑地金襴手飾壺」が飾られています。
■ 松の間(まつのま)
松の間は、370平方メートルの広さで、内閣総理大臣や最高裁判所長官の重要な儀式に使用される部屋です。欅材の板張りが施された床と若松文様の裂地が壁に施されており、格式高い空間を演出しています。
■ 梅の間(うめのま)
梅の間は、152平方メートルの部屋で、中村岳陵作の「紅白梅」が飾られています。扉の把手飾台座には螺鈿が施され、部屋全体に繊細な美しさが感じられます。
※出典:宮内庁ホームページ(https://www.kunaicho.go.jp/about/shisetsu/kokyo/kyuden-ph.html)
5. 皇居のイベントと祭り
皇居で開催されるイベントや祭りは、日本の伝統と文化を感じることができる貴重な機会を提供しています。毎年、多くの公式行事や文化的なイベントが皇居の内外で行われ、国内外から多くの訪問者を引き寄せています。
■ 新年の一般参賀
毎年1月2日に行われる新年の一般参賀は、一般の人々が天皇陛下に新年の挨拶をするために皇居に集まるイベントです。この日は、天皇陛下および皇族が皇居のベランダに登場され、集まった群衆に向けて挨拶を行います。この風景は日本のテレビでも放送され、多くの国民に親しまれています。
■ 天皇誕生日の一般参賀
天皇陛下の誕生日である2月23日には、再び多くの人々が皇居を訪れます。この日もまた、天皇陛下が皇族と共に皇居のバルコニーに登場し、訪れた人々に対して挨拶をされます。これは日本国内だけでなく、国外のメディアにも取り上げられる重要なイベントです。
■ 皇居東御苑の公開
皇居東御苑は、一年中公開されている部分で、ここでは旧江戸城の遺構を見ることができます。特に桜の季節には「お花見」として多くの人々が訪れ、春の訪れを楽しみます。また、秋には紅葉の美しさを観賞することができ、年間を通じて自然の美を楽しむことができます。
6. 皇居へのアクセス
皇居へのアクセスは、東京の中心部に位置し、多くの公共交通機関を利用して容易に訪れることができます。
■ 電車でのアクセス
最も便利なアクセス方法は電車です。皇居の最寄り駅は東京メトロ千代田線の二重橋前駅で、出口から徒歩約3分です。また、JR東京駅からも徒歩約15分と、複数の路線からアクセスが可能です。
■ 車でのアクセス
車での訪問も可能ですが、皇居周辺は一般的に交通が混雑しやすいため、公共交通機関の利用が推奨されています。車を利用する場合は、近隣のコインパーキングを利用することが一般的ですが、特に週末やイベントの際には混雑が予想されるため、時間に余裕を持って訪れることが望ましいです。
■ その他の情報
自転車やバイクの場合、近隣に駐輪場がありますが、こちらも大変混雑することがあるので注意が必要です。また、皇居周辺は皇居ランナーなど歩行者の利用も多いので、アクセスの際はそれを考慮に入れると良いでしょう。
さいごに
皇居を訪れることは、ただの観光経験以上の意味を持ちます。それは、日本の歴史、文化、自然の美しさを体験し、また天皇という存在が現代日本においてどのような役割を果たしているかを理解する機会を提供します。皇居の各スポット、そこに息づく歴史、行われる儀式やイベントは、日本のアイデンティティの核を形成しています。
皇居を訪れる際は、その一瞬一瞬に意味が込められていることを心に留め、この歴史的な場所が提供する独特の体験を存分にお楽しみください。そして、日本の心とも言えるこの地から、多くの学びと感動を持ち帰ることができることを願っています。