
伊勢神宮の歴史や概要を詳しく解説

目次
はじめに
伊勢神宮(正式名称は「神宮」)は三重県伊勢市にある神社です。天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る内宮(皇大神宮)と、天照大御神の食事を司る御饌都神(みけつかみ)・豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る外宮(豊受大神宮)を中心に、125の宮社から成ります。
伊勢神宮の概要
内宮・外宮の2つの正宮のほか、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があり、これら125の宮社すべてを含めて「神宮」と呼びます。伊勢市を中心に、近隣の市町にも鎮座しています。

起源は第11代垂仁天皇の時代、今からおよそ2000年前とされ、天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を伊勢にお祀りしたのが内宮の始まりと伝えられます。

参拝は外宮から内宮の順に巡るのがならわしです。祭典をまず外宮で行う「外宮先祭(げくうせんさい)」にならったものです。内宮のほとりを流れる五十鈴川の上流には「神宮林」と呼ばれる森が広がり、その面積は伊勢市の約4分の1に及びます。参拝の際に目にする神域の森は、そのごく一部です。

社殿は檜の素木(しらき)を用いた「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」と呼ばれる様式で、簡素な直線で構成されています。

20年に一度の「式年遷宮」では、内宮・外宮の正宮や14の別宮、鳥居や宇治橋など170を超える建物が建て替えられ、約1500点の御装束神宝も新調されます。準備から完了まで8年余りかかる神事です。

伊勢神宮の歴史
1. 紀元前4年頃:内宮(皇大神宮)の創建

『日本書紀』などによれば、倭姫命は天照大御神をお祀りするのにふさわしい地を求め、大和から伊賀・近江・美濃などの国々を巡って伊勢に入りました。
そのとき天照大御神は「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にも寄せては帰る国である。都に近い傍国で、美しい国である。この国にいようと思う」と告げ、倭姫命はその教えのままに五十鈴川の川上に宮を建てたと伝えられます。これが内宮の始まりとされます。
2. 690年:第1回式年遷宮の実施

式年遷宮は第40代天武天皇の発意により始まり、次の持統天皇の4年(690年)に第1回が行われました。約20年ごとに社殿を建て替え、御装束神宝も新調する神事です。
戦国時代には長い中断もありましたが、その後再興され、現在まで続いています。
3. 鎌倉〜江戸時代:御師(おんし)の活躍と参宮の普及

鎌倉時代の日記『勘仲記』には、弘安10年(1287年)の外宮遷宮に「参詣人幾千万なるを知らず」と記され、この頃には多くの参拝者が訪れていたことがうかがえます。伊勢信仰を全国に広めたのが「御師(おんし)」と呼ばれる人々です。
御師は全国に担当地域と檀家を持ち、毎年檀家を訪ねてお神札を配り祈祷を行い、檀家が伊勢参りに来ると自邸に泊めて両宮を案内しました。江戸時代には二千人あまりの御師がいたといわれ、ある檀家数調べには当時の総戸数の89%にあたる約422万戸の檀家が記載されています。
4. 江戸時代:「おかげ参り」の大流行

江戸時代には、庶民が集団で伊勢を目指す「おかげ参り」がたびたび大流行し、わずか50日ほどの間に数百万人が押し寄せたこともあったと伝えられます。
5. 1868年:明治維新と国家神道の成立

明治維新後、神宮は明治政府のもとで国家神道の中心に位置づけられ、御師の制度は廃止されました。
6. 1945年以降:戦後の再建と現代への継承
第二次世界大戦後に国家神道は廃止され、神宮は宗教法人として祭祀を続けています。戦後の1953年(昭和28年)には第59回式年遷宮が行われました。

2013年(平成25年)には第62回式年遷宮が行われました。次の第63回に向けては2025年(令和7年)5月の山口祭から祭典が始まっており、2033年(令和15年)10月に、大御神が新しい社殿へ遷る「遷御(せんぎょ)」が予定されています。
伊勢神宮の見どころ
【 ⟨ 内宮(皇大神宮) ⟩ 】
内宮(皇大神宮)は、天照大御神をお祀りする神宮の中心のお宮です。
正宮

内宮の正宮です。拝殿はなく、正殿は四重の垣に囲まれています。参拝者は御門の前で、白い布「御幌(みとばり)」越しに「二拝二拍手一拝」の作法でお参りします。
正宮は公の祈りをささげる場で、感謝を伝えるのが古くからの風習とされます。個人的な願いごとをきちんと伝えたい場合は、神楽殿でご祈祷を受けるとよい、と神宮は案内しています。
宇治橋

宇治橋は内宮の入口で五十鈴川に架かる橋です。全長101.8m、幅8.4mの反り橋で、橋板や欄干は檜、橋脚は水に強い欅で造られ、両端には大鳥居が立っています。

もとは傷んだ際に修繕や架け替えをしていましたが、1889年(明治22年)の第56回式年遷宮から、遷宮に合わせて20年ごとに架け替えられるようになりました。11月下旬〜1月下旬の午前7時半頃には鳥居から昇る朝日が見られ、冬至の頃は鳥居の正面から太陽が昇ります。
五十鈴川御手洗場

宇治橋を渡った先の五十鈴川には「御手洗場(みたらし)」があり、手水舎と同じように川の水で手をすすいで身を清めることができます。
瀧祭神(たきまつりのかみ)

御手洗場の近くにある瀧祭神は、五十鈴川の守り神を祀る内宮の所管社です。社殿はなく、御垣と御門の内の石畳に祀られています。所管社でありながら、祭典は別宮に準じて行われます。
伊勢では毎年8月1日(八朔)に五十鈴川で汲んだ水を瀧祭神に供え、持ち帰って神棚で無病息災を祈る風習があります。
御稲御倉(みしねのみくら)

御稲御倉は内宮の所管社のひとつで、神宮神田で収穫され、三節祭(6月・12月の月次祭と10月の神嘗祭)でお供えされる御稲が納められています。
建物は小さいながら、神明造の特徴がよくわかります。
内宮神楽殿(ないくうかぐらでん)

内宮神楽殿は、宇治橋から正宮へ向かう参道の中ほど左側にある銅板葺・入母屋造の建物です。お神札授与所、ご祈祷受付、御饌殿、神楽殿が並び、「御饌(みけ)」や、奏楽・舞を伴う「御神楽(おかぐら)」のご祈祷を受けられます。
お神札・お守りの授与や御朱印の受付もここで行っています。
【 ⟨ 外宮(豊受大神宮) ⟩ 】
外宮(豊受大神宮)は、天照大御神の食事を司る神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祀りしています。今から約1500年前、丹波国から迎えられたと伝えられます。
正宮

外宮の中心となるお宮で、豊受大御神を祀ります。外宮の御垣内にある御饌殿では、朝夕の2回、神々に食事を供える「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」が約1500年にわたり続けられています。
多賀宮

外宮第一の別宮で、豊受大御神の荒御魂(あらみたま)を祀ります。殿舎はほかの別宮より大きく、正宮に次ぐ規模です。
御池に架かる亀石を渡り、98段の石段を上った小高い丘の上に鎮座しています。
風宮(かぜのみや)

風雨を司る級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)を祀る別宮です。雨風は農作物に大きく影響するため、古くから正宮に準じて丁重に祀られてきました。蒙古襲来の際には、内宮の風日祈宮とともに「神風」を吹かせたと伝えられます。
多賀宮へ上る石段の左側に鎮座しています。
古殿地

古殿地(御敷地)は、前回の遷宮まで社殿が建っていた場所で、正宮と同じ広さがあります。次の式年遷宮では、ここに新しい社殿が造営されます。
中央には、正殿中央の床下に立てられる「心御柱(しんのみはしら)」を納めた覆屋(おおいや)があります。
三ツ石

三ッ石は、御敷地の南側にある三個の石を重ねた石積みです。式年遷宮の際、御装束神宝や奉仕員を祓い清める「川原大祓(かわらおおはらい)」がこの前で行われます。
近年は手をかざす人もいますが、祭典に用いる場所のため、神宮は控えるよう呼びかけています。
外宮神楽殿

外宮神楽殿は、正宮へ向かう参道の途中右側にある銅板葺・入母屋造の建物です。御饌や御神楽のご祈祷の受付、お神札・お守りの授与、御朱印の受付を行っています。
【 ⟨ おかげ横丁 ⟩ 】
おかげ横丁は、内宮の宇治橋から歩いて5分ほど、おはらい町の中ほどにある50余りの店が集まる一角です。伊勢路の建物の意匠を取り入れた町並みに、郷土料理や伊勢土産の店が並びます。名前は江戸時代の「おかげ参り」にちなみます。営業は9時30分から、閉店は季節により17時〜18時で、毎月1日には早朝から「朔日朝市」が開かれます。
参道食べ歩き
参拝の合間に食べ歩きを楽しめる店も多く、伊勢志摩の郷土料理「手こね寿司」なども味わえます。
伊勢うどん

伊勢うどんは、太くやわらかい麺に醤油ベースの濃いタレをからめて食べる伊勢の名物です。コシの強さより、もちもちとしたやわらかさが特徴です。
赤福餅

赤福餅は1707年(宝永4年)創業の赤福の名物で、餅の上にこしあんをのせた和菓子です。おかげ横丁でも購入できます。
夏季限定の「赤福氷」は、抹茶蜜をかけたかき氷の中に特製のあんと餅が入ったもの。毎月1日(1月を除く)には、月替わりの「朔日餅(ついたちもち)」も販売されます。
まとめ
参拝は外宮から内宮の順に。外宮は伊勢市駅から徒歩約5分、内宮は外宮からバス・タクシーで約10分です。宇治橋の日の出を見るなら、11月下旬〜1月下旬の午前7時半頃が目安です。
内宮参拝の後は、おはらい町とおかげ横丁で伊勢うどんや赤福餅を味わえます。次の式年遷宮に向けた祭典は2033年まで続くため、時期が合えば神宮公式サイトで日程を確認しておくとよいでしょう。




