京都御所について|歴史や見どころを詳しく解説

🕓 2025/1/27
#観光地

京都御所の歴史や見どころを詳しく解説 

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 目次

  1. 京都御所とは?
  2. 京都御所の歴史
  3. 京都御所の見どころ


はじめに

日本の歴史と文化を象徴する京都御所。平安時代から明治時代初期まで、約千年以上にわたり天皇の御所として使用され、日本の政治・文化の中心地としてその役割を果たしてきました。現在もその格式高い建築や庭園は、歴史と伝統を今に伝える貴重な遺産として人々を魅了しています。

本記事では、京都御所の基本的な概要から、その長い歴史の中で重要な出来事、さらには訪れる際にぜひ見ておきたい見どころについて詳しく解説します。千年を超える時を超えた宮廷文化の粋を、この記事を通じて感じていただければ幸いです。



 

1. 京都御所とは? 

京都御所(きょうとごしょ)は、平安時代から明治時代初期までの約千年以上、天皇の御所として使用された歴史的建造物です。 現在の建物は、安政2年(1855年)に復元されたもので、平安時代以降の建築様式の変遷を今に伝えています。

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御所の中心には、歴代天皇の演説や重要な会見が行われました 正殿・紫宸殿(ししんでん)があり、その前庭には「左近の桜」や「右近の橘」が植えられています。天皇の日常生活の場であった清涼殿(せいりょうでん)や、学問や和歌の会が催された御学問所(おがくもんじょ)など、多彩な建物が配置されています。

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京都御所は、平安時代の建築様式を忠実に再現した復古的な建物として高く評価されています。特に、柱を円柱とし、建具に蔀(しとみ)を用いるなど、平安時代の寝殿造の特徴を取り入れています。ただし、屋根構造など一部には江戸時代の技法も取り入れられています。

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日本の歴史と文化を今に伝える貴重な遺産であり、その建築や庭園を通じて、平安時代から続く宮廷文化の粋を感じることができます。訪れることで、千年以上にわたる歴史の息吹を肌で感じることができるでしょう。

 

 

 

 


2. 京都御所の歴史 

京都御所(きょうとごしょ)は、平安時代から明治時代初期まで、天皇の御所として日本の歴史の中心を担ってきました。その歴史は、度重なる火災や再建、政治的変遷とともに歩んできました。以下に、京都御所に関連する主要な出来事を西暦順にまとめます。

 1. 794年:平安京への遷都 

DALL?E 2025-01-26 11.21.03 - A slightly old-fashioned, horizontally elongated historical illustration depicting the establishment of Heian-kyo (Kyoto) in 794 AD. The scene include※イメージ画像

桓武天皇は、奈良時代末期の政治的混乱や仏教勢力の影響を排除し、政治の刷新を図るため、784年に平城京から長岡京への遷都を行いました。しかし、長岡京では天皇の弟である早良親王の死など不吉な出来事が続いたため、再度の遷都を決意しました。

794年(延暦13年)10月22日、桓武天皇は長岡京から山背国(現在の京都府)に新たな都「平安京」を定めました。平安京は、東西約4.5キロメートル、南北約5.3キロメートルの広さを持ち、中央を南北に貫く朱雀大路によって左京と右京に分けられ、北部中央に天皇の居所である内裏を含む大内裏が配置されました。 

 

 2. 1331年:土御門内裏の成立 

DALL?E 2025-01-26 11.21.01 - A historical illustration in a slightly old-fashioned style, horizontally elongated, depicting the establishment of the Tsuchimikado Imperial Palace i※イメージ画像

平安京の内裏は、度重なる火災や戦乱により焼失と再建を繰り返してきました。特に1227年(安貞元年)の火災以降、元の位置に内裏が再建されることはなく、摂関家などの邸宅を仮の皇居(里内裏)として使用することが一般的となりました。その中で、東洞院土御門殿(藤原邦綱の邸宅)が里内裏として用いられるようになり、1331年(元弘元年)、鎌倉幕府が擁立した光厳天皇がここで即位しました。これ以降、東洞院土御門殿は正式な内裏として定着し、明治初年まで「土御門内裏」とも呼ばれました。 

 

 3. 1620年:和子入内と女院御所の造営 

DALL?E 2025-01-26 11.24.34 - A historical illustration in a slightly old-fashioned style, horizontally elongated, depicting the construction of the Nyoin-gosho (Consorts Palace) ※イメージ画像

江戸時代初期、徳川秀忠の娘・和子(まさこ)は、1620年(元和6年)に後水尾天皇に入内(天皇の后となること)しました。これに伴い、和子のための御所である「女院御所」が造営されました。この造営には、茶人としても知られる小堀遠州が関与し、庭園の設計や建築にその美意識が反映されました。

また、武家の詰所も設けられ、御所の構造や機能に変化が生じました。このように、和子の入内は、御所の建築や庭園に新たな文化的要素をもたらし、江戸時代の宮廷文化に大きな影響を与えました。 

 

 4. 1855年:安政度の再建 

DALL?E 2025-01-26 11.20.51 - A historical illustration in a slightly old-fashioned style, horizontally elongated, depicting the reconstruction of the Kyoto Imperial Palace in 1855※イメージ画像

京都御所は、度重なる火災に見舞われ、その都度再建が行われてきました。嘉永7年(1853年)の火災で御所が焼失した後、安政2年(1855年)に再建が行われました。この再建では、平安時代の内裏の姿にならって建物が復元され、現在の京都御所の建物の多くはこの時期に再建されたものです。 

再建にあたっては、平安時代の建築様式を復古的に取り入れ、紫宸殿や清涼殿などの主要な建物が再建されました。これらの建物は、平安時代の寝殿造を基調としつつも、江戸時代の技術や様式も取り入れられています。 

 

 5. 1868年:明治天皇の東京遷都 

DALL?E 2025-01-26 11.20.48 - A historical illustration in a slightly old-fashioned style, horizontally elongated, depicting Emperor Meijis journey to Tokyo in 1868 during the Mei※イメージ画像

明治元年(1868年)、明治政府は江戸を「東京」と改称し、同年7月17日に「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発布しました。これにより、江戸は正式に東京と命名されました。 

同年9月、明治天皇は初めて東京への行幸(東幸)を行い、江戸城に入城しました。この際、江戸城は「東京城」と改称されました。その後、天皇は一度京都に戻られましたが、翌年の1869年3月に再び東京へ行幸し、以降東京が事実上の首都となりました。 

これにより、京都御所は天皇の常住の場としての役割を終えましたが、歴史的建造物として保存され、現在に至っています。現在の京都御所の建物の多くは、1855年の再建当時の姿をとどめており、歴史的価値が高いものとなっています。

 

 

 


3. 京都御所の見どころ  

京都御所は、千年以上にわたり天皇の御所として使用されてきた歴史的建造物であり、その内部には多くの見どころがあります。以下に、訪れる際に特に注目すべき主要なスポットを詳しくご紹介します。

 ■ 紫宸殿(ししんでん) 

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紫宸殿は、京都御所の正殿であり、最も格式の高い建物です。平安時代から歴代天皇の即位礼や重要な儀式が執り行われてきました。内部には、天皇の御座である「高御座(たかみくら)」が設置され、その背後には「賢聖障子(けんせいのしょうじ)」と呼ばれる32人の聖賢の肖像画が描かれています。

前庭の南庭(だんてい)には、東に「左近の桜」、西に「右近の橘」が植えられ、春には美しい花を咲かせます。これらの配置は、平安時代の儀式や行事に深く関連しており、当時の宮廷文化を今に伝えています。 

 

 ■ 清涼殿(せいりょうでん) 

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清涼殿は、平安時代以降、天皇の日常生活の場として使用された建物です。内部には、天皇が日中に過ごす「昼御座(ひのおまし)」や、夜間の休息の場である「御帳台(みちょうだい)」が配置されています。

また、清涼殿の東側には「御湯殿(おゆどの)」があり、天皇の入浴の場として使用されました。平安時代中頃(9世紀末)に天皇の住まいとして定着し、その後も重要な儀式の場として利用されました。 

 

 ■ 小御所(こごしょ) 

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小御所は、将軍や大名との対面の場として使用された建物で、寝殿造と書院造が融合した様式が特徴です。1867年の「小御所会議」が行われた場所としても知られ、歴史的な重要性を持っています。小御所の前には「御池庭(おいけにわ)」と呼ばれる回遊式庭園が広がり、四季折々の美しい景観を楽しむことができます。

この庭園は、池と遣水を中心とした自然の風趣を生かした日本庭園であり、池の中には3つの中島があり、木橋や石橋が架けられています。 

 

 ■ 御常御殿(おつねごてん) 

スクリーンショット 2025-01-26 10.52.03 (1)写真提供:京都のフリー写真素材

御常御殿は、天皇の日常生活の場として使用された建物で、内部は15の部屋に分かれています。特に「上段の間」には、天皇の象徴である桐・竹・梅が描かれ、その背後には三種の神器のうちの剣と勾玉が納められています。

御常御殿の東側には「御内庭(ごないてい)」と呼ばれる庭園があり、遣水や橋が配置された美しい景観が広がります。この庭園には、茶室「錦台(きんたい)」があり、徳川慶喜が献上した雪見灯籠などが配置されています。 

 

 ■ 諸大夫の間(しょだいぶのま) 

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諸大夫の間は、正式な参内者の控えの間として使用された建物で、清涼殿の西側に位置しています。内部は東から西へ順に「公卿の間」「殿上人の間」「諸大夫の間」の3室に分かれています。各部屋にはそれぞれ「虎の間」「鶴の間」「桜の間」という別名があり、これは室内の襖絵の題材に由来します。

具体的には、虎の間には岸岱(がんたい)による虎の図、鶴の間には狩野永岳(かのう えいがく)による鶴の図、桜の間には原在照(はら ざいしょう)による桜の図が描かれています。これらの部屋は、参内者の身分や役職に応じて使用されており、公卿の間は参議以上の公家、殿上人の間は諸侯や所司代、高家、諸大夫の間はその名の通り諸大夫が利用していました。 

 

 ■ 建礼門(けんれいもん) 

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建礼門は、京都御所の正門として知られ、南面して建つ切妻造、檜皮葺の四脚門です。この門は、天皇や外国の元首などが来訪した際にのみ開かれる格式高い門として知られています。また、京都三大祭りの一つである「葵祭」や「時代祭」の行列もこの門から出発することから、祭事においても重要な役割を果たしています。

建礼門の名称は、平安時代の内裏十二門の一つである「建礼門」に由来しており、その歴史的背景からも高い格式を持つ門とされています。 

 

 ■ 新御車寄(しんみくるまよせ) 

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御車寄は、1915年(大正4年)の大正天皇の即位礼に際して、新たな玄関として建設されました。この建物は、馬車や自動車での乗り入れが可能なように設計されており、以降、天皇皇后両陛下の玄関として使用されています。建築様式は、伝統的な和風建築の意匠を取り入れつつ、近代的な機能性も備えており、京都御所の中でも特に目を引く建物の一つです。 

 

 ■ 御池庭(おいけにわ) 

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御池庭は、小御所の前に広がる池泉回遊式庭園で、その美しい景観から訪れる人々を魅了しています。庭園内には、池の中央に架かる欅橋(けやきばし)や、対岸の蓬莱島など、風情ある景観が広がっています。特に、池に映る建物や植栽の姿は四季折々の趣を感じさせ、訪れる度に異なる表情を楽しむことができます。

 

 

 


 さいごに 

京都御所は、日本の歴史や文化を深く感じることができる特別な場所です。その壮麗な建築や格式高い庭園は、平安時代から続く宮廷文化の粋を今に伝えています。また、その背景には、幾度もの火災や再建を経て形作られた歴史の重みが刻まれています。

訪れることで、歴代天皇が過ごした空間や、儀式が行われた場の息遣いを感じることができるでしょう。日本の伝統や文化に触れたい方はもちろん、歴史好きな方にも見逃せないスポットです。京都を訪れる際には、ぜひ京都御所に足を運び、その魅力を存分に味わってみてください。